鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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享和二年は三陀羅法師ー評による狂歌会が始まった年でもあった(『壷菫』)。同時に北斎の摺物も神田側の作品が増加している。これは浅草市人の場合も同じ傾向があった。すなわち,寛政末年から享和年間にかけ,北斎は主に浅草市人・三陀羅法師の狂歌グループとの関係下に,各々の狂歌会の繁栄状況に対応しつつ摺物制作に携わったと言えるであろう。以後,北斎は様々な狂歌グループから摺物の依頼を受けたようだ。享和三年以降,役者の改名披露等の歌舞伎関係の摺物も目立ち始める。とはいえ,再び多くの摺物を北斎に依頼してきたのは浅草市人だった。享和四年,北斎は浅草側の「春興五十三駄之内(東海道五十三次)」を描き,翌文化二年には「狂歌百人一首(狂歌師肖像集)」を描いた。これらは連作として数が多いという他に,それだけ多くの狂歌師と狂歌を載せた記念的かつ人名録的な意味もあったと思われ,『壷菫』も年次共に作品を書き留めている。【三】北斎への特別注文という点で,摺物と肉筆画は制作背景が等しい。「宗理」から「画狂人北斎」の時期にかけた肉筆画には,画面に画賛を伴う作品が多い。賛者の周辺を摺物と共に考察する作業は,絵師の身辺や肉筆画に新たな考証が導かれると考える。以下,この点に関する試みを述べる。最初に掲げる作品は「風俗三美人図」(太田記念美術館蔵)である。各図「北斎画」の落款に朱文円印「晨長」を伴う三幅対の作品である。賛者は朱楽菅江であり,菅江は寛政十年十二月十二日に歿した(『狂歌墓所一覧』)。作品の制作はそれ以前である。北斎が「宗理」から「北斎」に改名した時期は,摺物「里芋にバッタ」(パリ国立図書館蔵)から寛政十年八月であり,北斎の改名と菅江の歿年月から「風俗三美人図」は寛政十年八月以降十二月以前の制作と制作時期が限定される。となると作品に見られる「辰政」印の,左上・右下の対角線上に欠損する時期が確定的になり,この時期を基準に同印章が捺印された肉筆画の制作年代が可能になろう。作品の制作背景には朱楽菅江の動静を考慮したい。寛政九年『弄花集』唐衣橘洲序文には「菅江は北におこり」と記され,漠然とはしているが,彼が力を得た地域が北方と示される。北斎が当時浅草に住んでいた事実や,先述の『壷菫」の記述や浅草市人との関係を踏まえると,「風俗三美人図」は「北のかた」に属する狂歌師からの依頼-8-

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