鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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作品に多く,制作年代は「富士図」よりも若干遅い享和三•四年頃の制作と推定される。により,北斎が制作に携わった作品と推察される。「富士図」(日本浮世絵博物館蔵)も,摺物に同一賛者を見出し年次が決定された作品である。これは既に『大揃・北斎』図録(1993)に記し,「富士図」の賛者「文来庵雪萬」を摺物「子供遊び図」に見出す作業を通じ,「富士図」は享和二年の作品と決定された。ここで以後の調査内容を補足すると,文来庵には「金龍山口口之老漁文来庵(印/雪・萬)」(二字不明)と記している摺物があり,この人物も浅草界隈の人物だった点が確定的になった(金龍山は浅草寺の山号)。北斎と浅草の関係をまた一つ裏付ける作品である。「富士図」も「北斎画」の落款に朱文円印「辰政」を有する作品である。しかし印章は「風俗三美人図」とは欠損状況が異なり,向かって右上が大きく破損し,印章の磨耗を考慮しても印文は全体的に太い。ここには寛政十年から享和二年の間に,北斎は何らかの事情で「辰政」印を再造した可能性か残される。「富士図」と同じ欠損状況の「辰政」印が捺された作品に「柳下傘持美人図(北斎館蔵・図6)がある。落款は「画狂人北斎画」である。この落款は,肉筆画では次期の本図には類似した構図で描かれた摺物が二点ある(パリ国立図書館蔵)。二点とも落款は「画狂人北斎画」である。一点は横長判で,年記「戌のとし春日」から享和二年壬戌正月の摺物と判明し,便々館湖鯉鮒(1756■1816)・風柳庵時成他全十七名の狂歌師が狂歌を載せる。便々館湖鯉鮒の狂歌グループの配物と判断され,湖鯉鮒は初め朱楽菅江に狂歌を学び,そのグループは『狂歌熊』では「山の手側」,『狂歌人名辞書』等では「琵琶連」と呼ばれる。前者は居住地,後者は湖鯉鮒が用いた琵琶形の花押により,花押は『狂歌鯛』にも載り,後年,北斎の門人葵岡北渓(1780■1850)の摺物には花押をデザイン化して用いた作品がある。ここでも市人や三陀羅法師の場合同様,狂歌グループを統率した人物が用いた花押は狂歌摺物の背景を知る目印になっている。肉筆画「柳下傘持美人図」に類似する他の一点の摺物は,大奉書十二切の縦判で,桐の下で傘を持つ女性と「の」の字が記された風呂敷包みを背負う子供が描かれている〔図7〕。狂歌は紀画閑多なる人物による。この人物は,享和四年刊・北斎挿絵による狂歌絵本『山満多山』下巻に登場する。同書は便々館湖鯉鮒の序文を付す「山の手側」狂歌師を中心とする狂歌集であり,紀画閑多は便々館湖鯉鮒傘下,摺物は山の手側のものと判断される。摺物にみえる「の」の文字も,湖鯉鮒が朱楽菅江門下だったやままたやま-9-

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