画家として取り組む可能性を示している。フリードリヒはフリードリヒ・シュレーゲルのロマン的イロニーの思想を,当時親交のあった,ドイツ観念論のシェリングの弟子たちから学んだと推察されている。ロマン的イロニーとは「パラドックスの形式」であり,「(イロニーは)無制約なものと制約されたもの,あるいは完全なる伝達不可能性と必然性との解決不可能な相克の感情を含んでおり,またそのような感情をかきたてる」(リュツェーウム断章48・108)。このような相克をもっとも端的に表したのが,果てしない無限の世界と向き合う僧の姿を描いた《海辺の僧》である。強調された近景(岸辺)と,深い遠景(海原)の相互関係は,限られたものと限りないものの対立への,象徴的言明となっている。一方,ロマン的イロニーはこうした無限者への態度から,同時に有限な現実へと向かう批判であった。フリードリヒの風景画は神への憧ればかりでなく,現実の人間存在への問いをも投げかけている。いわゆる神との対話としての風景画とは一線を画する,《希望号の難破》などの愛国的な作品は,こうした現実的視点にもとづいている。ダダのイロニーの申し子である。イロニーは,ダダ芸術において「異化」が主流となる。ペーター・ビュルガーは,ダダ芸術を標的においた「アヴァンギャルドの理論』のなかで,ショックが歴史的アヴァンギャルドにおいて,芸術志向性の最高原理へと高められるとともに,異化は実際に支配的な芸術手法となり,一般的カテゴリーとして認識されると指摘した。周知のようにベルトルト・ブレヒトは,彼の叙事的演劇の理論において,既成の不満足な理解が,理解不能な異化というショックによって,真の理解へと導かれるとしている。ここでジョン・ハートフィールドのフォト・モンタージュを取り上げてみよう。ハートフィールドの作品の独創的なユーモアとイロニーは,異化としてのダダ芸術の特質を示しているからだ。たとえば《万歳,バターがなくなったI》は,鉄を頬張る家族の食卓風景だが,「ハンブルクでのゲーリングの演説ー鉄はつねに帝国を強くしたが,バターと塩は国民に脂肪を与えたにすぎない」という,ューモアとイロニーに満ちた添え書きが見られる。ハーケン・クロイツをパターン化した食堂の壁紙も,生活に及19世紀前半のドイツ・ロマン主義は「静謡で自由な精神の高み」を重視した。しかし20世紀初葉のダダは,むしろヴァルター・ベンヤミンの言う「アウラ喪失」の時代-184-
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