鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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の実在を描写してきた。抽象絵画はこの上なく直載で生き生きとした表象によって,“無”を叙述しているがゆえに,不可視なもの,不可解なものを示すより良い可能性を与えてくれるのだ…もちろん具象的な表象もこの超越論的側面をもっている。つまり,どの対象も究極的,原初的,原理的には不可解な世界の一部分として世界を具現しているので,これらの対象は絵に描かれた場合,描写の“機能”が少なければ少ないはど,ますます迫真的にあらゆる神秘性を示す」(注6)。リヒターの作品解釈,とくにイロニーについての考察は,むしろ彼の原点である初期の「資本主義的リアリズム」を検討しなければならないだろう。アマチュア写真をもとに,日常生活の光景や人物を描いたこの作品群は,写真を意識したモノクロームであるが,やはりピンボケ写真のようにぼかされている。海水浴,ろば乗り,舟遊びに興じる親子や恋人の姿。ソファでくつろぐ家族の一場面。しかし,資本主義社会におけるこうした市民的な光景にもかかわらず,これらの作品はわれわれの慣れ親しんだ視点ではなく,まったく異質の視点を提供しているかのようだ(注7)。リヒターはほかしについて,「私自身と現実との関わり以上に,現実について明確なことは言えない。そのことがぼかし,不確かさ,はかなさ,部分的であることにかかわっている」と述べている(注8)。つまり,機械的に操作された明瞭な像をあえてぼかすという逆説的な手法によって,リヒターは現実性への接近を試みているのだ。《シュミット一家》[図7]は中産階級の家族のアルバムから取り出された一枚の平凡な写真にすぎない。だが,絵画に変貌し,不明瞭・不安定な像として呈示されることによって,われわれを市民(資本主義)社会の現実へと向かわせる。この作品が強いるのは,あのビーダーマイヤ一時代に代表される小市民的文化,杜会の現実に背を向けたあの閉鎮性へのイローニッシュな視点なのである。図7ゲルハルト・リヒター《シュミットー家》1964-190-

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