鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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⑱ 仲田定之助とドイツ前衛美術研究者:愛知県美術館学芸員寺門臨太郎日本における,いわゆる新興美術運動の急瑞は,その堰か切って落とされた1910年代,そして逆巻きうねった20年代を経ながら多くの支流を生んだ。その源のひとつは,ドイツにあった。当時のベルリンやデュッセルドルフで活躍したこともある美術家や,また現地の美術動向を体感した批評家の足跡については,近年きわめて実証的な研究の成果が多数報告されることで,個々の重要性に対して一層新たな認識がなされるようになってきた。今回モティーフにした仲田定之助も,この流れにおけるキーパーソンのひとりである。これまで,1922年に渡独した仲田は,日本人としてほとんど初めてヴァイマールのバウハウスを訪れ,同時代の前衛的な美術作品を収集し,帰国後はおもに批評家として活躍したとされてきた。しかし,彼が新興美術の展開のうえで関与した個々の事柄を傍証するに足る滞独中の史料は,必ずしも充分に揃っているとは言いがたかった。そうした状況をふまえて,今回の研究調査では,主に仲田の自筆資料に焦点を当て,彼の滞独中の足跡をより鮮明なものとすることが第一の目的にされた。そして結果的には,イ)1923年の日記;口)1922/23年の夫人宛の書簡類;ハ)1922/23年の実兄,勝之助宛の書簡類;二)1922/23年の定之助宛の書簡類,という各々を中心にした資料につぶさに目を通すことが可能となった。本稿では,新興美術の黎明期に重要な役割を果たした人物と仲田の関係や,1920年代に日本で開催された日本人のコレクションによるドイツ前衛美術の展覧会とその出品作に関する周知の事実をあらためて整理し,併せて今回初めて明らかとなった事実を紹介することをもって報告に代えたい。会」が開かれた。その目録によると,出品されたのは,カンディンスキー,アーキペンコ,クレー,グロッスなど9作家による,少なくとも41点の作品だった。またこれは,1914年に美術家の斎藤佳三と音楽家の山田耕搾が,ベルリンで「デア・シュトゥルム」を主宰するヘアヴァルト・ヴァルデンから託された作品をもって開催した「DER1 村山知義とカンディンスキー1923年7月,東京神田小川町の流逸荘で,都合2回にわたり「最近露独表現派展覧-193-

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