鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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STURM木版画展覧会」以来の,そして日本人自身が収集した作品を展観するものとgruppe」を想起させるこの名称は,仲田に先だって渡独していた村山知義,和達知男,トDasJunge Rheinland」主催の「国際美術展」に参加するなどしていたほか,ベルしては初めての,ドイツ前衛美術を紹介する重要な展覧会だった。主催は「アウグスト・グルッペ」。ドイツの11月革命に時を得て結成された,「11月グループNovember-永野芳光によって「急遠コネ上げ」られたもので,展覧会への出品作品は,そのうちの永野がドイツで収集したものだった(村山知義『演劇的自叙伝・2』,1974年,東邦出版社)。村山は,滞独中の1922年にデュッセルドルフで開催された「若きラインランリンのトワルディTwardy画廊で永野と連続個展を開催するなど,まさにドイツ前衛美術の潮流の真っ直中に身を投じていた。そしてまた,彼はヴァルデンを通じて,アーキペンコ,カンディンスキー,クレーといった作家たちの作品に魅了されていった。村山は,そのなかでもアーキペンコには実際に会ったが,カンディンスキーとクレーを望まなかった」(前出『自叙伝』)。ここで本稿に関わってくるのは,村山が自著のなかで,仲田定之助がカンディンスキーを訪問した旨を「伯林の」自分に知らせてきたという書簡の文面を引用していることである(『カンディンスキー』,1925年,アルス)。ところで,仲田自身によると,少なくともベルリンに滞在していた間,村山とは「トワーディ画廊で彼が開いた作品展を見ていたが,すれちがって逢っていなかった」(「回想の三科」,『みづゑ』第769号,1969年所収)。一方,和達については,「去年逢った人で村山氏の友人」(日記,23年10月21日附)としており,仮に村山とは面識がなかったとしても,和達とは会っていたことになる。いずれにしても,仲田は,村山や永野を知っていて,しかも村山には会っていないとしても,とにかく書簡のやりとりはあったであろうことが容易に推測できる。ふたたび,仲田自身によると,カンディンスキーを訪問したのは,1922年の11月11日と13日のことだった(夫人宛書簡,22年11月20日附;23年の日記,1月22日附)。初め11日に私邸を訪ね,「大いに歓迎してくれて翌日の昼食に呼ばれましたが遠慮して辞退し一時間半ばかり」話をしたという(夫人宛書簡)。このことは,村山が引用している仲田の書簡では,さらに詳しく触れられている。そして,「13日には約束によってワイマーの美術学校に又カンディンスキー氏を訪ねて新しい画を見せて貰ったり写真を撮」ったりして(夫人宛書簡),できたばかりの版画集《小世界》の1枚を署名入りで進呈してもらったうえ(夫人宛書簡;23年の日の2人には,彼らの作品が村山自身をより強烈に魅了したためか,あえて「会うこと-194-

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