記;村山宛の書簡),クレーとグローピウスに引き合わされている(村山宛の書簡)。さらに,仲田のカンディンスキーとの交流は,この直接訪問以降も続いたようで,翌年の1月に,「扇と帝展の写真」をそえた書簡と小包をカンディンスキー宛に送った(23年の日記,1月19日附)。これに対して,1月の22日にはカンディンスキーからの「中々読みにくい」返事が仲田のもとに届いている(日記,同日附;なお,このカンディンスキーからの仲田宛の書簡は,その現存が確認されていない)。仲田がいかにこのバウハウスのマイスターを重要視していたかは,帰国後に仲田自身がベルリンで買い集めた作品の展観について自ら新聞紹介した際に,「敬愛なるマイスター・カンディンスキー」で始まる書簡のかたちをとっていることにもはっきりと表れている(「北欧展を報ず」『報知新聞』1924年12月5,6日両H附所収)。ベルリンでの仲田が,ほとんど毎日のように幾人かの日本人と交流していたことは,家の石本喜久治である。渡航の船上でたまたま知り合ったこの人物の名は,実際のところ仲田の日記に幾度も登場し,また仲田は彼を介してヴァルデンのことも知ったとしている。彼の記憶によると,「それは1922年の秋だった。わたしは建築家の石本喜久治君と一緒に,ベルリンの中心街ポッツダマー広場の近くにあったシュトルム書店にしばしば立ち寄っては美術図書を買ったり,予約したりして……,またある日そこに来合わせていたヘルヴァルト・ヴァルデンに紹介された」という(「『嵐派』運動の回想く1〉ヘルヴァルト・ヴァルデンの生涯」,『みづゑ』第732号,1965年所収)。そして,少なくともその年の8月と10月の2度にわたって仲田と並んでヴァルデン夫妻の芳名帖に残っていることが,すでに明らかにされていることから(五十殿利治,「モダニズムの批評家仲田定之助」,展覧会カタログ『銀座モダンと都市意匠』,資生堂ギャラリー,1993年所収),仲田の記憶する時期と多少の違いはあるものの,とにかくその年の8月以降の秋口に知己を得てまもなく,仲田と石本はヴァルデンの自宅を訪ねている。また,既に述べた仲田のカンディンスキー訪問に関して言えば,そもそもヴァイマーールのバウハウスを尋ねることを思いついたのは,この石本だった。「丁度其頃ー19222 石本喜久治と宗像久敬23年の日記における記述に残されている。その中で,ことに目を引くひとりが,建築年10月一永野某君と村山知義君とが連続個展をその店(トワルディ画廊)で開いてゐ-195-
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