鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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1924年の6月に丸善新館で「欧州表現派美術展覧会」を,そして同じ年の12月に画廊た。其処へ石本君が寄ると,偶然ワイマールから伯林に出て来ていたカンディンスキ一夫妻が来てゐて紹介されたのださうだ。さうして訪問を約したと云ふ」(仲田「国立バウハウス」,『みづゑ』,第244号,1925年所収)。石本とドイツ国内旅行を計画中だった仲田は,「無論自分に異議のあらう筈がない,一緒に行く事に決めた」という(上掲文献)。しかも,その当時仲田は,「バウハウスの名を耳にしたのは其時に初(ママ)まる」という状態だったにもかかわらず,帰国後の1925年に,先に引用したとおり,日本で初めてバウハウスに関して紹介する記事を3回に分けて『みづゑ』に掲載したのである。仲田が同時代の前衛的な傾向の美術へ傾倒した要因は,多くを石本によっているのであった。一方,仲田はデア・シュトゥルムやトワルディのはか,ヘラーという画廊にも足繁く通っていた。そこで,また偶然に「宗像と云ふDeutscheN eue KunstのSammler」を教えられ(日記,2月2日附),23年の2月に初めてその住まいを訪ねた。そして,日記のなかで,「Kandinskyのかいたのでいいのを二枚ももってゐる。その他Pechstein,をたくさんもってゐる。兎に角いいものをもってゐるので驚かされる(中略)実際宗像氏はいいものを沢山もってゐる」という具合に,宗像のコレクションに並々ならぬ感動を受けたことを書き残している(同9日附)。この宗像久敬は,言うまでもなく,日本銀行支店長として当時ベルリンに在住し,多数のドイツ表現主義の作品を収集していたことでつとに有名な人物である。仲田は,その2月の初訪問以来たびたび宗像を訪ねており,たとえば「……宗像氏を訪う。又OttoMullerの大きな画を買った。又昂奮してゐるらしい」(日記,10月10日附),あるいは「Munch,Maties(ママ)の記述を通して伝わってくるのは,仲田か宗像の作品収集の量に驚愕し,なおかつ宗像の美術に対する情熱に感動し,そして宗像が美術作品の質を見きわめる,いわばその眼力に感心しているさまである。いまや,石本やヴァルデンに加えて,この宗像との出会いこそ,その後の仲田が美術を生業としてゆく決定的な要因となったことか,あらためて確認できる。仲田,石本,宗像の3人は,そうした相互の交流を経ながら各々に帰国したのち,九段で「北欧新興美術展覧会」を立て続けに主催し,それぞれに収集した作品を持ちRotloff(ママ),それからIta lienのO.Carraなぞももってゐる。皆いいものだ。GraphicGraphicなぞを見せて貰う」(同28日附)などと書きとどめていたのである。そうした-196-

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