鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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寄って展観したのである。本報告では,1924年のこれらの展覧会に関して,仲田の滞独中の足跡を検証するという観点から,そこに出品されたクレーの作品に焦点を絞り込んで省みたい。と言うのは,筆者は昨年までに,日本における初期のクレー受容に関して概観する機会があったが,今回の調査で,仲田が旧蔵していた油彩画の来歴の一部が明らかとなるなど,かつての拙稿に修正を加える必要が生じたためでもある。「欧州表現派美術展覧会」で展観されたクレーの作品は,竹村文庫蔵の目録によると,油彩《小さな秋の風景》(1921年作。目録や同時代の文献では「秋の風景」とされているが,原題は「Kl.Herbstlandschaft」),水彩《貸しボート屋のある風景》(1919年作。同様に「貸しボート屋の絵」,原題「Landschaftmit dem Segelschiffvermieter」),そして素描《亡き人が食卓へ誘われて》(1915年作。同様に「食卓への誘惑」,原題はさな秋の風景》は,旧仲田定之助蔵というかたちで現在は東京国立近代美術館の所蔵作品になっており,また素描《亡き人が食卓へ誘われて》も,仲田定之助のクレジット入りで複製図版を掲載した出版物があったことからも(平凡杜世界名画全集続巻14「クレー」,1962年),仲田が滞独中に手にいれた作品であることは確かである。ここで問題としたいのは,それらの作品の来歴である。仲田は『みづゑ』誌上で,そのあたりの事情について言及していた。それは,すでに引用したように,石本と訪れたデア・シュトゥルムでヴァルデンに紹介されたという一節に引き続いている。「……ヴァルデンに2度目に逢ったときにはパウル・クレーの油彩と,ペンの素描とを譲りうけることができた」(「『嵐派』運動の回想……」)。一方,これまでのところ,《小さな秋の風景》について,作品裏面のラベルに見られる「GK」という文字の附された番号表示を,「ゴルツ・クンスト」と読み替え,ミュンヘンのハンス・ゴルツの画廊「ノィエ・クンスト」から出た作品である可能性をもつという見解があった(拙稿「日本におけるクレー受容の端緒」,『愛知県美術館・研究紀要』第1号,1994年所収)。しかしながら,仲田の日記に,むしろ彼自身の『みづゑ』誌上の記述をいっそう確かなものとして裏付ける箇所が見いだされた。まず,1923年1月18日附の項。「DerSturm に行ってKleeの01にMK75,000奮発する。併しこれはTwardyのに較べて非常に安3 パウル・クレー「Abgeschiedenevon einem Tisch angezogen」)の3点だった。これらのうち,《小-197-

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