い」。翌日,「十一時頃SturmからPaulKleeの画を届けて来た。Deskのそばにかける。ヂッと見て味をかみしめる」。つまり,仲田が「ヴァルデンから譲り受けた」とした油彩画と,この日記で言及されている油彩画が,同一のものとして比定され得るのである。要するに,これは《小さな秋の風景》にあたる可能性が極めて高い。すると,その来歴に画廊デア・シュトゥルムを加える必要が生じてくる。ただし,その場合でも,裏面ラベルの「GK」を,如何に読みとくかが未解決の問題として残り,依然としてゴルツのノイエ・クンスト画廊の名も即座にして来歴から消去されるべき状況にはない。また,同様にして,素描《亡き人が食卓へ誘われて》に関しても,『みづゑ』誌上で言及されている「ペンの素描」に該当する可能性がある。しかしながら,油彩画購入と同じ日の日記には,素描の入手に関する記述も見いだされる。仲田はデア・シュトウルムで油彩画を購入し,「それから又Twardyに行ってP.KleeのFederzeichnungを手に入れ」たという。これにより,《亡き人……》がデア・シュトゥルム経由ではなく,画廊トワルディからの入手であった可能性が高くなる。仮に,仲田が翌年帰国して展観した作品のなかに,少なくとももう1点クレーの素描かあったなら,ひとつをヴァルデンの画廊から,もうひとつをトワルディから,と比定することも可能であったろう。しかし,現実には,「欧州表現派」展にも,「北欧新興美術」展にも,クレーの素描は1点しか出品されていない。もっとも,ヴァルデンから入手した素描は日本まで運ばれ,戦後もしばらくは仲田の手元におかれて複製図版にもされた《亡き人……》であり,トワルディで1923年1月18日に手に入れられた素描は何らかの理由で失われたため,24年の展覧会には出品されなかったと仮定するなら事情は大きく変わってくる。しかしながら,23年の日記の記述を仲田の帰国翌年の24年に開いた展覧会の作品目録との比較で素直に捉えるなら,やはり《亡き人……》は,かつてヴァルデンが扱った時期を経て,実際にはトワルディで売却され,そして所有者の帰国にともない日本へ入り,翌年展観されたと想定するのが順当なところであろう。と言うのは,この《亡き人……》は,1918年刊行の『シュトゥルム・ビルダーブーフ』のリストにも確かに収められているからでもある。また,展覧会に出品された3点のうち,仲田の所蔵ではないと思われる水彩は,彼の帰国した年の7月に「最近露独……」展に出品されたクレーの水彩とエッチング(同展目録)のうち前者である可能性があるとされていた(前出拙稿)。しかし,これに関-198-
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