しても,仲田の日記を参照する限りにおいて,別の可能性も勘考する必要が生じる。の画を買ったさうだ」。これだけでは,もちろん油彩画なのか水彩画なのかは判断できないが,仲田の2点と同様に,翌年の2つの展覧会に出品されたものだとして,しかもそれが石本の所蔵する作品であるならば,当然これこそが水彩の作品《貸しボート屋のある風景》に同定できるのである。クレーのモノグラフとしては最初期の1冊であるヘルマン・フォン・ヴェダーコプの著書に黒白図版が収載されているこの《貸しボート屋……》は,逆に前出の『シュトゥルム・ビルダーブーフ』のリストにはないことから,石本はヴァルデンの関わらないかたちで,23年の1月15Bころにベルリンのいずれかの画廊で手に入れたと推測できる。このように,24年のふたつの展覧会に出品されたクレーの作品にまつわる事柄は,仲田の日記の記述によって,少なくとも従来に較べて幾分明らかになる可能性が見いだせたと言えるだろう。仲田の前衛美術指向が,ベルリンで共に過ごした石本喜久治や宗像久敬,そしてヘアヴァルト・ヴァルデンとそのデア・シュトゥルム,あるいは画廊トワルディなどに起因していることは,今回の自筆資料によって確固たる事実となった。また,本稿では触れなかったが,ベルリン滞在中の仲田は,造形芸術への関心を強めていったと同時に,頻繁に劇場へ足を運んでいることも確認できた。それをもって,帰国後に彼が,「三科」に名を連ね,1927年に上映された「劇場の三科」における「舞台形象」の制作で大いに貢献したことの下地が出来上がっていったことも,今後大いに検証されるべき点であろう。同様に,「三科」の造形作家としての仲田は,明らかに同時代のルドルフ・ベリングやヴィリアム・ヴァウワーといった彫刻家の作品に様式的に見て一脈通づる立体作品を制作している(現,東京国立近代美術館蔵)。これらは,日本でいまだにほとんど知られていない,いわゆる表現主義彫刻の初期の受容形態を考察してゆくうえで,非常に重要な部分を担っている。そして,これに関しては仲田自身が,若干なりとも助けとなり得る記述を残しており,たとえば,デュッセルドルフで「若きラインラント」の事務所に立ち寄ったり(夫人宛の書簡,1922年10月21日附),「大ベ)レリン展覧会」に足を運び,「11月グループ」の作品について「流石に人の意表に出るものがある」と感じていることから(23年の日記,5月19日附),上記の彫刻家たちの23年の1月15日に仲田が記すところでは,「石本君から久振りにKarteが来た。P.Klee-199-
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