歴史的な流れの中に位置付けることをもくろんだ。この文章は,自らの進むべき道を模索していたマティスたち若い世代の画家にとって,伝統と現代絵画とをつなぐ理論的な保証に思われたであろう。シニャックの文章は広く読まれ,支持を得て新印象主義は再び時代の中心に位置付けられることになった。しかし,1904年のマティスの新印象主義への歩み寄りはより複雑な背景を持っていたと考えられる。なぜならマティスは「ウージェーヌ・ドラクロワから新印象主義」を読んだ直後,1899年には《サイドボードと食卓》[図4]という,教科書から学んだことを忠実に実践したといっても過言ではないような,新印象主義の技法を駆使した作品を既に制作していたからである。それではマティスはなぜ1904年に再び新印象主義に接近したのであろうか。その理由を考えるためには当時彼が直面していた問題の所在を明確にする必要がある。3)マティスとセザンヌンヌの教えを総合した成果であると評した。モローとセザンヌを併置したマルクスの評価は今日の視点からみれば納得できるものではないが,当時セザンヌはサンボリストたちによって高く評価されていたということを考慮しなくてはならない。E.ベルナールのセザンヌ論には,サンボリストの立場に引き付けられて解釈されたセザンヌ観が「装飾的」「プリミティヴ」といった形容詞を伴って展開されていたのである。マティスはエコール・デ・ボザールにおいてモローの弟子であった。そして1899年にはマティスはセザンヌの《三人の浴女》[図5]を購入して熱心に研究しており,1900年頃のマティスの作品にはセザンヌの強い影響をみることができる。当時マティスはモローの弟子にしてセザンヌの後継者として位置付けられ,サンボリスムの一翼を担う画家であると捉えられていたのであった。ところが1904年の夏マティスは新印象主義の1904年のマティスの個展のカタログの序文でR.マルクスはマティスをモローとセザ/ \ノ図4マティス,《サイドボードと食卓》,1899ヽ-212-
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