鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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画家と合流する。当時のパリの芸術界の勢力分布から見れば,これは転向と取られかねない行為であった。事実《豪奢,静寂,逸楽》はサンボリストのドニの猛攻撃にさらされることになる。マティスにこの大胆ともみえる行動をとらせた原因を考えるにはシニャックの「ウージェーヌ・ドラクロワから新印象主義」に戻らなくてはならない。シニャックはその文章の中で絵画を構成する要素の自律性に言及し,色斑は何かを模倣するものではなく抽象であると書いた。また彩色された筆触は色彩と形態の調和に役立つものであり,絵画表面を織り成すものでもあると述べた。そしてセザンヌの用いた筆触も同じ理念に依っていると書いたのである。この部分がマティスの関心をかきたてたであろうことは十分に想像することができる。1904年のアンデパンダン展にマルクスはセザンヌの強い影響を見て取った。セザンヌの追従者はそれ程に多かったのであるが,1898年に画商のデュラン・リュエルが当時のマティスの作品も含めて嘆いたように,彼らの多くはセザンヌの物真似に止まっていた。こうした状況を考慮するなら,1904年にマティスが直面していた問題はセザンヌに対する一層深い理解の獲得であったと推測されるのである。そして彼は新印象主義の理論の実践がセザンヌの理解を進めるにあたって有効であると判断したと思われる。それはその年の夏,マティスが新印象主義者たちとベルナールのセザンヌ論を巡って議論を重ねたということからも推測できる。そもそもサンボリスムと新印象主義が対立的な立場を取ったのは印象主義に対する自らの位置付けにおいてであった。サンボリストは反印象主義を唱え,新印象主義は印名主義の後継者を任じた。しかしセザンヌについての双方の見解は必ずしも対立していた訳ではなかった。むしろセザンヌに対する理解が当時はまだ未成熟で,印象主義のあとを受けるものとしてのセザンヌを双方の陣営が各々の立場から引き合う形とな図5セザンヌ,《三人の浴女》,1879-82-213-

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