⑫ 「一遍聖絵」の研究(1) 画面構成及び描写態度について研究者:杉野女子大学非常勤講師堀内祐子本絵巻の特徴として挙げられる高くて遠い視点のとり方(俯眼表現)について先ず述べておきたい。一遍は予州窪寺にて「南無阿弥陀仏」という六文字は,それ自体が徳を持っていて,ただ1度だけ(一遍)念仏を唱えれば一切の衆生は往生できるのだ,という悟りを得ている(巻1第4段)。その後熊野本宮にて「一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也。信不信をえらばず,浄不浄をきらはず,その札をくばるべし。」という熊野権現の神託(巻3第1段)を受けて賦算に対する確固たる自信を持って,一人でも多くの衆生に結縁し済度するために全国遊行の旅に出たのであった。また既に明らかにされているように,この遊行は衆生との同時往生,同時成仏の立場をとる一遍にとって修行であると共に自分自身の念仏往生でもあったのである。そのような信念に従って入滅するまで休むことなく遊行を続けた一遍その人の行状を絵画化するに当たり,一遍を敬愛し,師の信念を深く理解していた聖戒は,師の往生の為にも絵巻には各地での賦算の対象となった大衆の姿は是非とも必要であると考えたことであろう。そのような信仰上より根源的な要望が強く働いて,視点は高く遠く設定され,広々とした風景の描かれた大きな画面に小さなサイズの人物を描き込む構図が採択されたのであろうと考えている。次に描写法に関していえば,12巻48画面という長大作であるにもかかわらず総体に緻密を極めている。細部に至るまでゆるがせにせず,簡略粗放に流れない入念さを感じさせる。それは建物や人物,牛車,水流,植物など大きなものから小さなものまで筆を惜しまない。しかし時には添景としての樹木や遠山や水際の土破は流れるような線ですっと形取るだけで表現されることがある。しかしそれとても決して粗略に描くのではなく,また鑑賞者の目障りになるような違和感を与えず,均衡のとれた表現となっている。すなわちこうしたあっさりと描かれた山などが添えられることで画面に疎密のバランスが生じ,逆に筆を尽くして描かれた主たるモチーフが一層引き立ってくるのである。この「疎」の要素を担うものは,他にも,横に長く引かれた線や最しで表される霞の余白部分,杜寺の境内や伽藍などの間に見られる草や凸凹の全く無い平らな地面(これは定規引きできっちりと描かれた建物を際だたせている),モチーフ-237-
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