鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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べられている聖達上人と一遍の風呂の中での仏法修行の語らいを想像にゆだねることで,その場における師弟の精神のふれあいをより深く鑑賞者に味わわせているのである。このことは詞書に語られた内容をいかに効果的に絵画化するかが最も重要な目的であり,建物を正確に描写することはその次に置かれる,という絵画化に当たっての態度を表わしていると言えよう。もう1点は巻2第2段と巻10第1段の2箇所にみられる建物と風景の表現である。り,別れに際しての二人の心情が感傷的で美しい広々とした風景の中に表されている。両場面ともに逆勝手に建物が描かれ,しかも建物の傍らに水(小さな川)が流れているために断面を見せている土波の表現まで共通している。この風景表現は巻10第1段の倉敷の軽部の宿の図にも使われている。特に巻2第2段の伊予出発の場面と巻10第1段では,上部中程に霞を掃き,地面と霞の間に格子状に仕切られた田畑,霞より上の部分にはなだらかな波状の遠山を描き,霞で分断された田畑と遠山を結び付けるかのように白い鳥の群れを飛ばすといった同一の手法による表現がみられ,巻2第2段の画面の右側の枠を建物の正面の辺りへ移動させると両図はほとんど同じになる。恐らく建物の位置の上下によって構図に変化を付けたものと考えられる。(4) 制作者の問題についてこの歓喜光寺本「一遍聖絵」の制作については,詞書や奥書に拠り,「一人のすすめ」によって,一遍の肉親とも考えられている高弟の聖戒の記述を詞書とし,法眼円伊という人物が中心となって絵を描き,一遍の没後十年の正安元(1229)年に完成したことが判明している。このうち本絵巻制作にあたって勧進を勤めた「一人(いちのひと)」と記されている人物について,望月信成氏は「開山禰阿上人行状」を根拠として,正るとされた。これに対して,佐々木剛三氏は,三條家の出身で,執権家の養子でもあり,歌人としても名高い園城寺の僧正公朝説を打ち出された。その根拠のひとつとして巻6第1段の詞書に公朝と一遍の書簡体の応答がかなり長く語られている点を挙げ,二人の結び付きを指摘しておられる。しかし公朝に関しては,「一遍聖絵」の巻7第1段に一遍が滋賀県の関寺で行法を行おうとした際,関寺を管掌する園城寺側が念仏禁止を言い渡した件が語られており,一遍たち時宗を敵対視していた存在である園城寺巻2第2段には伊予国からの出発,桜井での聖戒との別離の2つの場面に分かれてお応4(1291)年5月から翌5年の2月まで摂政関白の地位にいた九條忠教を指してい-240-

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