鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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の僧正がこのように豪華な行状絵巻の制作に携わるだろうかという反対意見が出されている。また九條忠教に関しては,拠り所となる「開山禰阿上人行状」が偽書である可能性が高いことが支障とはなっているが,他に条件に叶う「一人(=摂政関白)」が見つからないこと,九條家を創設した兼実が法然に帰依し,以来浄土教と関わりが深いという理由から,恐らく忠教であろうという解釈が一般的になっている。だが九條家が法然に帰依したからといって,法然門流の聖達の教えを受けながら親鸞に近い念仏勧進へと進んでいった一遍の行法をどのように受け取ったか分からないし,もし万か一時宗に帰依していたとしても,一遍の後継者は聖戒のほかに,強大な時宗教団を形成していった二祖他阿真教もいるのであり,「開山彊阿上人行状」以外に忠教と時宗や聖戒とを結び付ける積極的な理由は今のところまだ見つかっていない。ところで今回の研究の成果として,私にはもう一人可能性のある人物が浮かび上がってきた。詳しい考証は今後に待つとして,それは西園寺公相の娘で亀山上皇の后の中宮従三位嬉子である。嬉子の存在が知れるのは江戸時代に纏められた『一遍上人語録』中の「消息法語」の冒頭に,「西園寺殿の御妹の准后の御法名を一阿弥陀仏とさつ(授)け奉られけるに,其御尋(ね)に付て御返事(以下略)」という部分である(この人物については越智通敏氏が調べられており,氏の著書『一遍一念仏の旅人ー』〔一遍会双書9'昭和五十九年,一遍会〕に詳しいが,しかし氏は「一人」に関しては九條忠教であるとの説をとっておられる)。嬉子は弘安6(1283)年に出家し,遅くとも一遍が上洛した翌7年には一遍に入信し,時衆となって「一阿弥陀仏」という法号を授けられたと考えられている。没年は文保2(1318)年である。西園寺家は公卿の名門であり,鎌倉幕府にも近く,公相の祖父公経以来太政大臣の家柄である。ところで一遍の俗姓は越智であるが(巻1第1段),父の俗姓は河野太郎越智通信といい,曾祖父の代から河野の家の流れも受け継いでいるのである。西園寺氏はその河野家と関係が深く,公経は幕府に願い出て,橘遠保以来所領としていた伊予国宇和郡の地を嘉禎2(1236)年に所領にし,以来河野氏に接近して伊予水軍の手を借りて,宋との交易を図って財産を得たとみられている。以上のように嬉子は一遍の家,ひいては一遍の親族と考えられている聖戒とも非常に関係が深く,一遍没後にその行状を偲ぶための,絹本という豪華な十二巻本の絵巻物制作の勧進者としてふさわしい資格を有する人物であると思われる。また一般的には「社会的地位において1の位にある人物」と解釈される「一人」に女性をあてるのは適切であるか問題もあろうが,法号の「一阿弥陀仏」の「一」-241-

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