鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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2.唐の定窯を次々に発表した。上述のように,定窯の焼成期間の上限を,隋としたり唐としたり揺れている。しかし,I馬先銘氏の定窯に関する総決算とみなされる1981年刊行の『定窯』(注11)と,翌1982年刊行の『中国陶荒史』(注12)の中の「定窯与定窯系」に於いて,氏は「唐代早期」を上限としている。出土資料の一つに,化粧掛けを施し,外面に黄釉を施し内面に白釉を施した,胎が灰色で厚く重い,粗質の平底の浅い碗が含まれており,これが典型的な「唐代早期」の様式を示すことが根拠になっている。この種の碗は,「河北曲陽県澗磁村定窯遺址調査与試堀」(注9)では,「晩唐」の年代が与えられていたものである。故宮博物員の李輝平氏と畢南海氏は,「論定窯焼荒工芸的発展与歴史分期」(注13)に於いて,1982年と1985年の調査を基にした焼成技術の研究の結果,定窯の上限を「初唐」としている。三本の爪のある支釘を用いて重ね焼きする技術による碗は,北方の墓葬では「初唐」より後には見られないこと,さらに,その技術による平底の粗磁碗か定窯から出土していることを根拠としている。I馬先銘氏が「唐代早期」の資料としている上記の粗白磁碗がこれに当たる。定州市博物館に展示されている解説によると,この種の三支釘を用いて焼成された粗白磁碗が,1990年夏に,澗磁村窯址の東側のアスファルト道路の工事現場から相当量出土したとのことである。澗磁村窯址の近くにある曲陽県文物保管所の収蔵庫に於いて,県文物研究所の劉英氏に初期の資料についての教示を求めたところ,実物資料として示されたのが同様の湘且白磁碗であり,製作年代はやはり「唐初期」とのことであった。比較的近年の研究が説く唐の定窯の様相を以下に挙げる。喝先銘氏は,『定窯』(注11)において,前章のように「早期」の粗白磁について記した上,この種の碗が,山西省の渾源窯や安徽省淮南の寿州窯で出土する唐の碗に類似した特徴をもつと指摘している。さらに,この種の碗より時代のやや下がるものとして,碗身が45度に直線的に開き,浅く,径の大きい,いわゆる玉璧底(注14)をも九,胎がかなり白く薄く,内外とも施釉された碗を挙げ,典型的な唐の碗の形式を備えているとする。この種の碗より更に少し時代が下がるものとして,碗身が弧を描き,口縁の外部が厚く作られて唇のようになった,いわゆる唇口碗(注15)で,玉璧底を-245-

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