鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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8,浙江省臨安県の銭寛墓出土。注20)とも質において大きな隔たりがある。晩唐に(2) 1990年に県から市に昇格した。て生産地を決定しなければならないであろう。唐を代表する白磁の名窯であった邪州窯は唐の終わりまでには衰退し,五代には定窯のほうが優れた白磁を生産するようになったというのが定説である。邪州窯の衰退の原因については,唐後半に那州窯周辺で戦乱が度々起こり,水害もあったこと,また,製陶のための原料が枯渇してきたことなどが挙げられている(注19)。河北省博物館の眺苑真氏は那州窯衰退の原因を主に戦争(安史の乱以後,河北省南部が長期間戦場であった)に求めておられる。耶州窯の衰退については,以上のように,ある程度原因かあきらかにされてきているのであるが,定窯の唐末までの発展の理由は未だ明らかでない。唐後半の戦乱は曲陽でも激しかったわけである。今回の調査で,唐末以前の定窯の製品の実物を見ることができたのであるが,唐末の製品を除いて胎の質は良くないことが確認できた。北宋の優れた製品どころか,唐の最末期(10世紀初期ころ)の「官」字銘のある白磁(図おける定窯の急速な発展について今後探求を進めるつもりである。今回の調査によって得られた資料の研究と,研究者との協力をさらに発展させていきたい。また,今回はできなかった邪州窯における調査を近い将来実施し,定窯の資料との比較研究を行いたいと考えている。(注)(1) 柴窯・汝窯・官窯.紆窯・定窯を言う。この中で白磁を主に焼成したのは定窯だけである。-251-図8

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