鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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⑭ 白馬会の研究研究者:石橋財団石橋美術館学芸員植野健造はじめに明治29年(1896)6月に黒田清輝らを中心として結成された洋風美術団体「白馬会」は,同年秋に第1回の展覧会を開催して以後,明治43年の第13回展まで白馬会展を開催し,明治44年3月に解散した。また,同会は展覧会を開催するだけでなく,絵画研究所を設立運営し,機関誌『光風」を発行するなどの活動もおこなった。先行の明治美術会が明治中期における国粋主義的文化風潮を濃厚に反映した性格をもち,官僚主義的に組織された団体であったのにたいし,西洋のより新しい芸術思潮と技術を基盤とし,会員相互が基本的には平等で自由な雰囲気のある芸術活動を志向して成立した白馬会が,当時の日本の美術界,ひいては社会に及ぼした影響は小さくない。白馬会の活動は,その後の美術団体およびその展覧会のあり方に一つの指針をしめしたのである。しかし,そのように在野団体としての自由な活動を標榜して出発した同会ではあったが,黒田清輝をはじめとした同会の会員の多くが東京美術学校西洋画科の教官もしくは卒業生でしめられていたことや,白馬会系の画家が明治40年に開設される文部省美術展覧会(文展)の西洋画部門の一つの勢力となってゆくことなどともあいまって,結果としては,同会の活動は日本近代美術史におけるアカデミズムの形成に深くあずかることともなった。日本近代美術史の流れを考えるうえで白馬会は重要な位置をしめるのであるが,白馬会の活動の全容はいまだ明らかにされておらず,同会が日本近代美術史上に果たした意義についても再考されるべき問題は少なくない。本研究は,創立から一世紀を経ようとする時期にあたり,白馬会の活動内容をできるかぎり明らかにし,同会が日本近代美術史上において果たした意義をあらためて検証することを目的とするものであ本研究がとるべき課題と方法を明らかにするために簡単に研究史をふりかえっておく。これまでの白馬会に関する研究としては,隈元謙次郎氏が昭和32年に『美術研究』る。1 研究史-253-

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