回展を除く各回の展覧会で絶えることなく,買入が減少してゆく後期の第12回,13回展で数点,とくに多かったとみられる初期の第4回,5回展では二十数点を数える。この東京藝術大学所蔵の白馬会展出品作については,福田徳樹氏の「東京美術学校における明治・大正年間の西洋画収集」(『明治前期油画基礎資料集成』,平成3年2月,中央公論美術出版)を参照しつつ,少しふれておきたい。東京美術学校における西洋画の収集は,西洋画科が設置されたのと同時に開始された。すなわち,明治29年10月27日買入,納入の久米桂一郎模写によるルイニ作「小児二葡萄」他4点がその最初で,納入は長尾建吉名義であるという。福田氏によれば,以後の東京美術学校の西洋画収集は,黒田清輝との関係もあり白馬会出品作か中心となっており,また,それらの作品買入の納入者として白馬会に関係の深い額縁店磯谷の長尾建吉の名がたびたびあらわれ,また,1日東京美術学校の所蔵の明治期西洋画作品につけられた額縁のほとんどは長尾の制作によるものとされる。ここで想起されるのは,『黒田清輝日記』によくうかがえるように,白馬会の創立へ向けての動きが東京美術学校の西洋画科設置の動きとまさに並行していたことである。このことを考慮すると,新たに開設される東京美術学校西洋画科の指導教官に任じられることと,白馬会の創立の二つは,黒田の意識のなかで分かちがたく結びついていたと推察される。すなわち,白馬会成立の要因としてはこれまで,明治美術会の硬直した組織運営にたいする黒田らの自由な美術家気質が強調されてきたが,しかし実際には,東京美術学校による作品買上という制度的な方策の可能性をえたことか,黒田をして白馬会創立を決心させた一つの要因となっているのではないかと思われるのである。東京美術学校の日本画科は西洋画科に先だち明治22年に授業を開始しているが,教官や卒業生の作品買上の制度はすでに日本画科が先鞭をつけていたもののようである。また当時,日本美術協会は皇室関係を,明治美術会は政府官僚をそれぞれ後ろだてとして成立していた。これらにたいし,白馬会はおもに東京美術学校(文部省)買上という制度を基盤として成立したとみることもできるのである。明治は,美術家が自由な芸術活動を標榜しても,制度的な基盤なくしては十全には活動を存続しえない時代であった。そのことはひとまずおき,先に記した出品作品と現存作品の同定作業をさらにすすめることによって,白馬会展の出品作の輪郭がより明確となってゆき,より多くのしかも具体的な作品のイメージをもって白馬会展の状況や問題を論じることが可能とな-256-
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