鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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ろう。白馬会展全13回の出品作品のデータベース化とともに,各作家別の出品状況に関する一覧表を作成したが,そのうち白馬会の会員もしくは准会員だった時期があったことがわかる作者のみをリストアップしたのが〔資料2〕である。これら32人をふくめて,白馬会展全13回において少なくとも450人の作者の作品が出品されたことが判明した(この数の中には,直接の出品者ではなく,参考品や記念品として出品された作品の作者も含まれる)。現在では名前も画歴も忘れ去られてしまった画家が圧倒的多数をしめるのであるが,今後その画業が再評価されるべき画家が含まれている可能性もある。また,会員においても,その半数以上は詳細な画歴は不明であり,それらの画家の伝記と作品の調査を継続してゆきたいと考えている。今後,白馬会の歴史的意義の考察を深めるにあたり考慮すべきと思われる,白馬会展の特色や変遷について二,三のことを素描風に記しておきたい。【相互研究的な発表の場から公募展へ】白馬会展全13回の作者数と出品数の推移をみておく(〔資料3〕)。初期の白馬会展は,会員の相互研究的な発表の場としての性格が強かったようである。そのため,スケッチ風の作品や未完成の作品も含めて,一人で多数の出品をすることが通例であった。第2回展以後,東京美術学校の学生などを中心に会員以外の作家も客員として出品するようになるが,当初の相互研究的な発表の場としての性格は中期までは比較的濃厚に継承されていたとみられる。『美術評論』1号,明治30年11月0)「時事」欄に「白馬会には審査なし」とあるが,回を重ねるごとにその出品数は増してゆき,明治42年の第12回展の状況について,『美術新報」8巻2号の「展覧会一束」では「出品数は多額に上る見込なるも場所狭陰なる為め鑑査を厳重にし仮令会員の作品にても之を取捨する筈なりと」とある。第12回展はとくに赤坂溜池三会堂と狭い会埠であったこともあるが,初期の相互研究的な無審査の展覧会から後期には明らかに鐸査のある公募展的な性格へと移行したことがうかがえる。この公募展としての性格を強めたのがいつの時期であるかは,まさにその時期にあたるとみられる第7回展か2)白馬会に関する画家と作品の研究3)白馬会の歴史的意義の考察-257-

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