鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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7回展,『萬朝報』明治35年10月17日)白馬会賞がもうけられたことがその一つの指標となるであろう。また,客員出品者の数に注目すると,初期からゆるやかに増加してきた客員出品者数が,明治40年の第11回展では106人と急増しており,最終の第13回展では186人を数えている。この数は明わせるが,この時期におよんで,白馬会展当初の相互研究的な発表の場としての性格はもはや維持できない状況となっていたであろう。このことが,明治44年3月の解散の一つの要因となったものとみられる。【見世物から美術展覧会へ】白馬会展の状況を伝える当時の新聞記事を紹介する。「看覧の客日に千を以て数へられ前日曜日の如き白馬会の門前ハ市をなして押合ふばかりの群集,浅草奥山の看せ物の前に見るガ如き光景を此処にも見たり」(明治35年第「日々込み合ふ見物人の中,浅草珍世界を見る以上の敬意を以て油絵に対する者ハ幾人あらう」(明治36年第8回展『萬朝報』明治36年10月1日)当時なお多くの人々にとって美術(絵画)展覧会がそれ以前の見世物的な興業としてとらえられていた様子を伝えている。白馬会の各回の展覧会の状況を伝える当時の新聞記事を読むと,白馬会はこの見世物的な興業から離れてゆくことを強く意識していたように思われる。白馬会の陳列方法に関しては,次々と新しい方法を導入し,しかもよく整理されていたことがたびたび記事となっているが,ここにそのいくつかを引いておく。「天井は全体を白布にて張詰め色々凝つた趣向がある(略)洋画新彩といふ題にてアートタイプの写真帖が遠からず出版されるとの噂だ」(明治31年第3回展,『毎日新聞』明治31年10月6日)「場内の装飾陳列等にも意を用ひ候彼れの今年はと探り候処,彼は又々新趣向の先鞭を着け申候,表の入口には紫と白の染分けの幕を廻らし,場内は四間四方計りの小区画を二三ケ所設け,作品の大小に依りて,夫れゞ>に配置し」(明治32年第4回展,『毎日新聞』明治32年9月29日)「陳列の具合から装飾から諸事余程整ふて居る。殊に観る人ごとに目録を一冊づ、くれるなどは誠によく行届いたことだ」(第5回展,『東京日日新聞』明治33年10月21日)ら9回展の全出品内容が不明のため特定はできないが,明治36年の第8回展において治40年の文展開設の時期にはすでに洋画界の裾野が大きく広がっていたことをうかが-258-

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