鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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「一体日本の絵画展覧会は出品の傍に作家の名前やら画題やら直段附けやら説明やら色々の物をぶら下げるので不体裁なのを白馬会は此に注意し去年迄は名前丈掲げて居たのを今年は之をも止めて額縁に小さく打ちたる番号丈けになし余は悉く目録で見る様にした」(明治35年第7回展,『毎日新聞』明治35年9月25日)以上の記事からうかがえるように,白馬会が展覧会場の入口に趣向を凝らし,陳列方法を簡素にかつ合理的に整理し,出品目録を配布し,アートタイプの図録を作成することなどによって,美術展覧会のあり方に一つの指針をしめしたことは注意されてよい。ただし,白馬会の展覧会にも実際には前時代の見世物や書画会の伝統的要素がなお残っていたであろうし,同時代の他の美術団体の影響もあったであろう。また,白馬会が試みた新しい陳列方法がどのようなものを手本としたのかという問題も残る。これらの点の検討も今後の課題としたい。【画風,主題の特色と変遷】黒田清輝らが明治美術会からでて新たに白馬会を創立した理由としては,先に述べたように,明治美術会の官僚主義的な組織運営にたいする黒田らの自由な芸術家気質かまずあげられるが,いまひとつ,これまでにもたびたびいわれてきたように,明治美術会の画家たちとの画風の相違も大きな要因であった。明治美術会の主要画家がおおむね印象派以前の画風を学び,これを発展させた画家たちであったのにたいし,黒田や久米桂一郎がフランスからもたらしたものは印象派の影響を受けたアカデミズム風の絵画であった。黒田,久米をはじめとした白馬会の画家たちが,明治美術会系の画家たちと対比され「新派」「紫派」「南派」などと称されたことはよく知られている。当時の洋画新派であった白馬会の画風や主題の特色や変遷についてみておく。〔景色画,風景画〕黒田,久米のもたらした清新な画風がまず白馬会の画家たちに継承されてゆくのは,風景画と風俗画の領域であった。白馬会第1回展の新聞批評には次のようにある。「新派は自得の画法に依りて,もろ、、の新しき製作を為しぬ,雨,霧,謁,晨,タ等の画材の如き,前人の独立しては描きたること稀なるものを,巧に物したるが如き其ーなり(略)山水の画材は,国画にありて殆どその能を尽せり,今新派は国画の画材を以て画材となし,これを仕上げるに写空描写の法を用ひ,極めて鮮明にして極めて快活なる画面を造れり」(『時事新報』明治29年10月25日)黒田自身は次のように語っている。-259-

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