鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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第2回展出品の黒田清輝の《避暑》,《秋草》以後,自然景を背景として一人ないし「黒田清輝氏曰く世に云ふ旧派と新派との区別をザット申せば旧派では景色でも和田ノ岬なら和田の岬を只写生して顕はす迄ですが我々の画く方では其和田ノ岬の晩景をかくとか月夜をかくとか雨中をかくとか其景に応じた感情を写すので只景色の写真を写すのとは少しく異なる所があり升」(『報知新聞』明治29年10月30日)それまでの日本絵画が題材としなかったような日常的で身近な風景に取材し,季節,時間,気象の表現をもりこんだ風景描写に白馬会の風景画の特色があった。また,画題または用語としての「景色(景色画)」から「風景(風景画)」への転換に,この白馬会の風景表現の登場が大きな要因となったことがすでに指摘されている(注3)。〔風俗画〕風俗画を遣るは,これを喘矢とす」(『時事新報』明治29年10月28日)と評されているように,歴史画というよりも現代風俗画であった。黒田がこの作品において手本を示した大画面の群像表現による風俗画は,第2回展の和田英作《渡頭の夕暮》から第6回展の赤松麟作《夜汽車》へと一つの系譜を形成し,単なる風俗画の域をこえた第9回展の青木繁《海の幸》へと結実する。〔景色を添えた美人画〕複数の婦人像を配し,春や秋といった季節的な画題をつけ,情緒的,感傷的な雰囲気の描写をねらった作品が多く出品されてゆく。こうした趣向の作品は後に文展初期洋画の有力な一傾向ともなってゆく。「黒田清輝氏が今夏の箱根土産とも云ふべき『避暑」(略),最近の作は(略)萩の下露とも云ふべきものにて両個とも景色を添へて美人を画けるなりけり」(『毎日新聞』明治30年10月26日)〔裸体画〕続的に出品された。そして,そのつどジャーナリズムによって風紀問題がとりざたされ,時には警察による展示の制限を受けたことはよく知られている。しかし,このような経過をへて「裸画」「裸美人」などと呼ばれていたものが「裸体画」「裸体婦人」などの用語へと転換されてゆく。裸体画が「美術」として鑑賞される環境を形成する契機は白馬会の活動によって与えられたといってよい。第1回展に出品された黒田清輝の《昔語り》画稿,下絵は,「此国の歴史に関係ある第2回展に出品された黒田清輝の《智・感・情》以後,裸体画が少数ではあるか継-260-

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