鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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2 1951-1955年日本の美術の現状を改革する動きをとることはほとんどなかった。その唯一の例外は,日展の改革である。1948年のプハマー博士の声明は,日展の民主化に大きな役割を果した。ただ,この声明は,基本的にはサゼッションに過ぎず,美術政策に関して,アメリカ側が積極的な立場をとったとはいえない。なお,1950年以降のイサム・ノグチの来日は,日本とアメリカとの交流にとって大きな意義があった。確かに彼によってアメリカ美術への関心が多少高まったが,しかし,一方で,ノグチの作品や発言は,日本や東洋を見詰め直す機会でもあった。以上のように,占領期においては,まだアメリカ美術ははとんど実見されておらず,啓蒙的な時期にすぎなかった。これは,生活文化と比較して対照的である。たとえば,進駐軍の家族住宅や家具等の製作及びそれらの払下げにより,また,様々なメディアによるアメリカの家庭生活の紹介によって,アメリカ文化は急速に日本に流入していた。美術の領域に関しては,戦前からのフランス美術の圧倒的な影響力はいまだ変わらない。アメリカ美術が戦後,紹介された早い例としては,1950年4月10日ー22日の『現代アメリカ美術紹介展』,2月3日ー10日の毎日新聞主催『日米交換展』等がある。いずれも小規模なものであり,後者の作品は,個人コレクションからのものであった。本格的なアメリカ美術の紹介は,1951年2月27日から3月18日まで東京都美術館で開催された,読売新聞杜主催の第3回日本アンデパンダン展(読売アンデパンダン)である。同展には,アメリカとフランスから出品があり,アメリカからは40作家44点の絵画が出品された。ただ,アメリカ生粋の作家だけでなく,イブ・タンギー,ェルンストのように,第二次世界大戦の戦火を避けてヨーロッパからアメリカに渡った作家も含まれていた。アメリカ生粋の作家は,リアリズム傾向の画家が外され,抽象表現主義やその周辺の作家,たとえば,ジャクソン・ポロック,マーク・ロスコ,クリフォード・スティル,アド・ラインハート,マーク・トビーらであった。この時期のアメリカの革新的な作家のそうそうたるメンバーであり,必ずしも大作とはいえないが,ある程度の質を保っており,かなり明確な方針のもとに選定されたといえる。このアメリカの出品がどのような経緯でなされたか不明であるが,まとまった形での出品には,ニューヨークのギャラリーとともに,ホイットニー美術館の協力があっ-268-

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