鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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たとされている。近年のアメリカの美術史研究では,抽象表現主義の社会的役割や受容の面が明らかにされつつある。それによれば,アメリカの国家によって,抽象表現主義の作品は,自由主義の砦としてのアメリカを代表する作品として,欧州等の展覧会に出品され,展覧会が行われた。いわばアメリカの覇権を担う文化使節である。ニューヨーク近代美術館が主にその政策に関係していたが,ホイットニー美術館もそれを果たしている。読売アンデパンダン展への出品が果たしてこのような具体的な政策と関係するかは不明であり,今後の研究を待たなければならない。ただ,少なくともこれらの作品が,以下のように,その自由さによって評価された点に関しては,当時の政策と同じ効果があったといえるだろう。アメリカの場合だと,日本と同じように,そういう{専統が短いといっていい。短いけれども,精神的な自由さというものが,今度の作品でも充分に感じられる。だが同じように抽象絵画といっても,児童画的なオートマティックな作品となっているけれども,このオートマティックな自由な表現が歓ばれることもよくわかるし,こういう自由な表現のできる精神は私にはうらやましい気がする。これは,『みづゑ』第547号の座談会(今泉篤男,富永惣ー,滝口修造,土方定ー)における土方の発言である。一方,次の富永の発言のように批判的な見解もある。根本的な,f専統が育てて来たプリンシプルがフランスにはあると思うんだ。ところか,それが,アメリカとか日本では度外視されてる。だから,そこがある点,自由なやり方ができる点でもあるけどね。つまり造形的手段として,そういうものを無視して絵画表現がほんとうに実りきるかどうかが問題だと思うね。そこにやはりフランスの強みがある。彼ら評論家は,アメリカの自由さを認めながらも,また,戦後のフランス絵画に行ぎ詰まりを感じながらも,造型性の確固としたフランス絵画を高く評価する。戦前からパリを美術の中心とし,フランス的な造型性を重視してきたこれらの評論家にとって,それは当然の反応であった。また,新聞紙上でフランス美術に話題が集中したが,二れは,一般の関心がどこにあったかを窺わせる。ただ「若い画家とその周囲の若い-269-

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