芸術愛好家たちの間にはアメリカ作品の新鮮さが話題にのぼ」っていることも,アメリカ通の画家阿部展也が述べており,変化の兆しも窺えるのである。その意味で,この展覧会は,ひとつのメルクマールとなるものであった。なお,翌年の1952年の毎日新聞社主催の第1回日本国際美術展にいくつかの国とともにアメリカからも作品が出品された。アメリカの移動常設美術館A.F. Aの協力の下で,アメリカン・シーンの作家,リアリズムの作家,抽象作家といった総花的な出品となり,必ずしも十分な効果を生み出さなかった。これ以後の同展のアメリカ出品作は,協力機関の問題か,他国に比して必ずしも優れたものではなかった。ただ,同展は,これまでのフランスヘの一元化を修正し,それを相対化させ,世界の美術へ視野を広げさせた功績は大きい。戦後の洋画壇を色づけた傾向上の特徴は,前衛派の急速な進出となかんずく抽象絵画の流行である。この風尚は,大戦後の世界的な現象であるが,震源地はアメリカであった。(中略)殊に,日本への流入経路や,その急激な蔓延は,戦後の言論界のアメリカニズムに強く鼓舞されたところがあり,過去50年来,フランス的な教養に養われ,それのみに信頼してきた日本の洋画壇を必要以上に戸惑いさせ,狼狽させた。これは,当時の状況をよく要約している。1952年,同じく今泉篤男が欧米に旅行し,抽象表現主義の大作を実見し,それらを下手,単純,野放図,大まか,大味,退屈等と形容したが,これはフランス美術とアメリカのそれをテイストの差として語っており,いまだ絵画空間の問題やそれを支える論理を論じるまでにはいたっていない。アメリカはマーケットとしては世界の先端だが,美術そのものはやはりフランスだとする意見も根強い。しかし,一方で,アメリカの美術の可能性や実力への理解も急速に高まっていった。それは,50年代,アメリカに渡る作家が増えていることからも理解されよう。占領期の50年8月に渡米した岡田謙三をはじめ,大橋泰(50年),清川泰次年),川端実(58年)らである。もちろん,日本とアメリカの交流が深まったという理由も考えられるが,すでに名前が知られた作家が渡米することは,アメリカ美術の可能性への期待が大きいことを窺わせる。1955年の段階で,批評家,柳亮は以下のように述べている。(51年),長谷川三郎(54年,一時帰国後再び渡米),高井貞二(54年),猪熊弦一郎(55-270-
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