かつてのフォービズムのように,日本の伝統的な表現に近い要素もあるため,容易に真似しやすく,したがって,空間の構築にまで達した作品は必ずしも多くはなかった。しかし,アンフォルメルを最初にH本に移植した富永惣ーが,タピエの受け売りとはいえ,マチェールや無限空間を論じたり,針生一郎のように,作品の大きさやオールオーバーの空間等を論じるなど,テイストではなく,作品論や芸術論にまで及んでいることは,大きな発展だといえるだろう。美術評論家,東野芳明は,1958年のアメリカ旅行で,抽象表現主義以後の作家,ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズと出会い,彼等の紹介記事を発表する(「狂気とスキャンダル」)。抽象表現主義の受容がほとんど作品からでしかなかったのに対して,これ以後の動きは,作品とともに作家までも,さらには,その論理をも含んだ受容となる。この2人は,後,来日も果たし,ジョーンズは,東京の画廊で個展を開催している。また,東野は,1963年に「ニュー・リアリズム」と題する文章を発表したが,これは,ニューヨークで開かれた同名の,いわゆるポップ・アートをまとめた展覧会に関するレポートである。アメリカは,ネオ・ダダに続き,更に新しい動きを作り出した。この新しい動向を次々と生み出すことで,アメリカは,まさに世界における美術の中心地となる。これは,戦前のフランス美術と同じといえる。日本の美術評論も,こうしたアメリカ美術の論理や視点をその骨格に置くことにより,日本の美術動向もまた,このアメリカの動きに大きく規定されることになる。それを示す例が,アメリカ美術に関する記事や情報の増加である。たとえば,東野は,1961年以降,『みづゑ』にポロック,デ・クーニングをはじめとする,アメリカの作家を中心にした評伝を発表。それらはまとめられて,1965年に単行本化される。東野の58年と60年の欧米旅行のレポートは,1962年に『パスポートNo.328309』として出版された。みすず書房の「現代美術」シリーズのひとつとして1963年に『ポロック』が刊行されている。このように,アメリカの美術に対する情報量は,1960年を通じて急速に増大することになる。一方,日本の若い作家の一部においても,漸く若い頃からアメリカの生活文化を受容し,アメリカの文化に憧れさえ抱く世代が登場する。その極端な例が「ビート族」4 1959年ー1965年-272-
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