鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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⑯ 菅茶山をめぐる画家・文人の研究研究者:広島県立美術館主任学芸員黒川修一はじめに菅茶山(1748-1827)は,江戸時代後期の写生派詩人として知られる。卑近な題材を平明な字句で詠じた彼の詩風は,当時,清新なものとして,世に好評をもって迎えられた。この備後神辺の詩人は,知遇を得た画家や文人たちから,数多くの書画を贈られている。そうした書画の多くは,現在も遺り,画家・文人との交流の様子は,茶山の詩集や日記など文字の上から知ることができる。菅茶山が愛蔵した知人たちの画は,美術品としての質は,必ずしも高いものとは言い難いが,のこされた文字と共に見る時,この時代の画家と文人の雅遊の有様や,絵画が描かれた状況,詩人が如何なる画を好んだかなどを知る資料とはなりうる。ここでは,これまで,茶山のために池大雅が描いたものとして,文献のうえだけ知られてきた《天門山図》についての二,三の知見を記すとともに,茶山の遺愛品の中の絵画の性格や彼の絵画的嗜好について言及してみたい。1.池大雅「天門山図」菅茶山が,多くの画家と知り合ったのは,数度にわたる京坂や江戸など他郷への滞在によるところが大きい。特に関西地方には六たび赴いており,さまざまな人々と交遊している。6回の滞在では,親しく遊んだ顔ぶれがそれぞれ少しく異なっていくが,明和7(1770)年,若き日の茶山が在京時に出会った画家の一人に池大雅(1723-1776)がいる。《天門山図》は,菅茶山が大雅に請うて描いてもらったものであり,その際の事の次第は,茶山や田能村竹田が記している。それらの文章は,大雅の人柄をよく表したものとして,これまでにも,しばしば触れられてきたが,実物の遺ることは知られておらず,また,如何なる画風のものであるかも不詳であった。その《天門山図》(紙本墨画・軸装1幅35. 5 X 57. 6cm 款:「庚寅春三月既望霞樵食名寓」印:白文方印「池無名載成印」「九霞樵者」,朱文長方印「遵生」)は,や、横長の小画面に,二つの山を描いただけの簡略な構成の作品である。先述のように,茶山や竹田が,本図の制作にまつわる経過や,当時の茶山の嗜好が窺える興味深い文章をのこしている。-274-

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