0茶山のもとに残ったのは,《天門山図》を描き損じて石の図に転じたものとの解釈も田能村竹田は,『屠赤瑣瑣録』巻三の中で,菅茶山から聞いた一連の話の一つとしてこれを紹介する。竹田は,文政6(1823)年の7月,神辺に茶山を訪れており,その時の懇談に基づく記述と考えられている。そして,この話の更に詳細な内容は,茶山自身の文を没後まとめた『黄葉夕陽村舎遺稿』の巻四に「題大雅画軸匝」として収められている。ここでは,共に全文を掲げることはしないが(注1),これらの文章や実際の作品からは,次のことが確認される。0茶山の京都滞在時の友人飯田玄泉は,大雅に画を学んでいた。大雅の弟子といえば,福原五岳,青木夙夜,木村兼載堂らの名が思い浮かぶが,この文からは,大雅か全くのアマチュアにも画を教授していたことがわかる。0茶山は,玄泉を介して大雅と親交を結んだ。因みに,このころ,茶山は未だ詩人として名をなしてはおらず,詩人と画家との交遊といった性格は薄い。0先ず,玄泉が大雅に《天門山図》を描いてもらっていた。この作品は現在は所在不明。〇玄泉所蔵の《天門山図》は,図上に大雅自筆で李白の詩が書されており,この詩と落款の書体は「太だ狂せる草体」であった。0茶山は,玄泉所蔵の《天門山図》を気に入って,自分も同エのものを欲したが,同図の賛と落款の書体は好まず,李白の詩は不要,落款は楷書でと要望した。〇これは,明和7(1770)年のことであった。〇当時,大雅の画は後世(文政年間)ほど珍重されていなかった。なされてきたが,描き損じは2枚(遺存せず)。「隠隠として山跛」が見えたのは,それら2図(《竹石図》《蘭石図》)であり,現存する《天門山図》の山腹には,跛を消した痕跡はない。ところで,玄泉本にあった李白の詩が,如何なるものであったかは不詳であるが,或いは,それは『唐詩選』に収録される「望天門山」だったのではないかと思われる。唐詩の選集である『唐詩選』は,盛唐詩を重んじた古文辞派の服部南郭によって『唐詩選国字解』が編まれて以来,多くの人に読み継がれた漢詩集の一つである。大雅の知己であり墓碑銘の作者でもある僧大典によっても,『唐詩解頗』等の注釈本が執筆さ-275-
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