向を見ることができる)。また,《浅間山…》などでは,あくまで山容の形態に沿って,時には柔らかく施されていた跛は,ここでは,点とも見えるほどの,短く細かい線の集積となっている。この粗放さは,「龍門祇園先生」に似し奉ったものと,気軽な付き合いの青年に所望されて描いたものとの相違であると同時に,晩年の大雅が,より簡略な描法によって,再現的な表現を成しえていたと見ることができるかもしれない。ところで,職業画家であった大雅は,若い頃から依頼者の注文によって制作しており,注文者の意にそわない場合には,改作したことも知られている。松室煕載からの注文による松尾大社の絵図作成は,若き日におけるよく知られた例である。大雅は,しかし,長じて後も,内容にまで関わっての依頼人の要望に答えているのである。一度描いた作品を兼藤堂に難じられて描き直した《竹巌新孵図》や本図の制作にまつわる話は,晩年に至っても(《竹巌…》も明和7年の作),人々の依頼に気さくに応じた大雅の人柄を示すとともに,職業画人としての性格や,即座に所望にこたえうる技佃をも物語るものといえるであろう。一方,茶山は,清新かつ写実的な詩風によって身近な事柄を詠じた,反古文辞の詩人といわれるが,はじめは「年十九にして,京師に学び,市川某に従って,謂ところの古文辞なる者を学」(頼山陽『茶山先生行状』)んだと伝えられる。「後ち自らその非を悟るや…」という転向が,いつごろ為されたかは明確ではないものの,明和8年の西山拙斎との出会いが契機となったのではないかと指摘されている。従って,明和7年には,未だ古文辞を奉じていたと考えるならば,古文辞派の人々が愛読した『唐詩選』に収められる李白の詩意を表わしたとも思える画は,その題材から言っても茶山の好むところであったろう。しかし,後に彼が他の画家たちから贈られた画の性格を考えあわせるならば,《天門山図》が詩人の興味をひいたのは,その再現的な描法によるものとも考えられるのである。南画の大成者とされる大雅との出会いは,茶山の若かりし日のことであったが,後年,詩人としての名を成してからも,しばしば南画家たちとの交遊は確認される。例えば,浦上玉堂とは,天明6(1786)年に茶山が彼のもとを訪れて以来の知己であり,文政元(1818)年には,玉堂・春琴や中林竹洞らとともに,詩人が書し画人が描く2.菅茶山をめぐる画人たち一詩人の好んだ絵画-277-
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