鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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文雅の会に出席している。岡山出身の文人・武元登々庵の追善会は,その一つであり,茶山はここに三画人と参加して書に筆をふるっている。なお,登々庵には,生前に6巻からなる『行庵詩草』(文化11・1814年)があるが,この詩集には菅茶山が序文を寄せ,竹洞,春琴らの画が載せられており,彼らのかねてからの文・画の交わりを知ることができる。しかし,茶山の遺した詩文・日記を見ると,彼と南画家との関係は,他の傾向の画家たちとの交流に比して,とりわけ深かったという訳でもなく,愛蔵した絵画の中でも南画の占める割合が目立って多いというわけでもない。茶山の日記によれば,むしろ,円山・四条派の画家(柴田義董,岡本豊彦ら)たちとの交遊が頻繁であったことがわかる。竹田が記すところによれば,「茶山翁之於月渓終身愛許称賛不措」(『山中人饒舌』)と,特に呉春の画を好んだことが知られ,また,茶山自身が写生派風の簡略な図をのこしている。当時,しばしば開催されたものに書画会があるが,この書画会こそは,漢詩人・儒者と南画家,というよりは彼らと円山・四条派など写生派系の画家との交流を一層促進するものであった。茶山も寛政6(1794)年の東山書画会を訪れて,呉春をはじめとするこの時の参加メンバーと知りあい,後年,文化5年の新書画展には(注3)'同郷の写生派画人・平田玉蘊,玉裸とともに自身も出品(<草書五絶>)しているのである。もっとも,茶山の人脈の多くは,同時代の他の人々と同様に,知人を介して拡大されることが多かった。なかでも最も親しかったのは,蠣崎波響,大原呑響であり,寛両者とは,江戸での再会,書簡のやりとりといった形で親しい交遊が続き,彼らを通じて知り合った人々も少なくない。その波響もまた,円山派に学んだ画人であり,とくに注目されるのは,彼にせよ呑響にせよ,茶山に真景図を贈り,詩人がそれを愛賞していることである。京都・巨椋池での茶山らとの舟遊の情景を描いた波響筆《巨椋湖舟遊図》は,そうしたものの一つである。茶山は,他の画家たち(釧雲泉,葦烈ほか)の真景図も多く愛蔵しており,また,呉春からは知りあった翌日に《東山諸寺廟図》なる画を見せられている。どうやら,菅茶山自身が真景図を強く好んだものと考えられるのである。一方,江戸における茶山の交遊相手として目立つのは,関西滞在以来旧知の画家以政6(1794)年の京都滞在時には,彼らとは殆ど毎日のように往来している。その後も-278-

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