鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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外では,谷文昴,鈴木芙蓉ら江戸南画の担い手たちである。茶山の江戸行は,福山藩―儒という立場によるものであり,この地における彼の交流には,互いに藩に仕える者同士との雅遊が,新たな交遊形態として加えられる。そうした雅遊の中で,文晟や芙蓉が茶山に描き贈った画は,叙述性の強いものであった。例えば,「甲子七月十八日封岳楼宴集棠日真景如此」の款記を持つ文晟筆《対岳楼宴集当日真景図》(文化元・1804年)は,柴野栗山邸での他藩儒者らとの雅遊の様を,中国の文人に擬した姿に描いたと思われるものである。はじめに菅茶山が,池大雅の《天門山図》を愛蔵していたことを記したが,それは真景図ではないものの,再現的な描法によるものであった。茶山は,また,大雅の没後も彼の画蹟を好んだと見えて,京都で鳩居堂が茶山のために大雅の展観を行っている。しかし,他方,「大雅より蕪村,画は上手なり」(竹田『屠赤瑣瑣録』)と語っているのは,沈南萩らの画法をも取り入れた蕪村の方が,再現的な表現においては長じていたと見たからではあるまいか。こうして見ると,菅茶山には,写生派の絵画や真景図,再現的な描法の画などを好む傾向があったと思えてくる。文人志向の者同士の交流ということで,当然,南画家たちとの付き合いがあり,彼らとの雅遊が確認されはするものの,茶山の絵画的嗜好は,むしろ写実的なものの方に向いていたのであろう。同時代の儒者・漢詩人の中には,写生派の絵画を軽んじる者もいたが,身近な事柄に関する実感を,平易な言葉で詠った神辺の詩人は,自らの感性に近しい写生的な姿勢の画をこそ好んだと考えられるのである。(注)(1) 『屠赤瑣瑣録』は,『大分県先哲叢書田能村竹田資料集著述篇』(平成4年大分県教育庁管理部文化編)や『田能村竹田全集」(大正5年早川純三郎編国文名著刊行会)などに,『黄葉夕陽村舎遺稿』は,『詩集日本漢詩第9巻』(昭和61年富士川英郎編汲古書院)などに収録されている。(2) 大雅が祇園南海から贈られて,画法を学んだという画冊として,『太平山水図』の名があげられることがある。その多くは,白井華陽『画乗要略』の記述を根拠とするが,同書の記述は小田海傷の言をもとにしている。しかし,この記述自体が誤認-279-

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