花鏡にも花角を戴く鹿が表されている。このように,この報告書で取り上げた14面の銀貼鏡全てか,必ず何れかの鏡と何らかの共通項を持っていて,銀貼鏡の銀板が同ーエ房で短い期間内に集中して制作されたことがほぼ解明出来たと思われる。(検討6)洛陽博物館が編集して1988年に出版された『洛陽出土銅鏡』に掲載された1面の「葵花鏡」(図13)は実に重大な鏡である。直径15.7cmの大きさの八稜鏡で,現在は白銅鏡のみであるが本来は裏面に銀板が貼られていたと考えられる。その白銅鏡の裏面に陽鋳で12文字からなる銘文が表されていて,「長寿二年脹月頭七日造初様」と解読されている。この長寿二年は693年に当る。但しこの鏡が出土した洛陽関林の墓は天宝八年(749)の紀年を有しているとのことである。この銘文とよく似た銘をもつ鏡が先述したサ美鏡(図14)である。それは裏面に貼られた打ち出しの銀板が外れ,鏡本体裏面に陽鋳で表された銘文が「唐長寿元年脹月頭七日造」と読まれている。さて,この年号を一応信頼できるとして,その他少なくとも制作年代の下限が分かる墓誌を伴った墓から出土した銀貼鏡を捜すと,神龍二年(706)の墓誌を伴った宋禎墓から直径6.2cmの銀貼小鏡(図15)が出土している(『考古』1986.5)。いわゆる六稜形で伏獣鉦の周りに葉のみ付いた蔓唐草文の中に,2頭の後祝と2羽の鳥が表され,精緻な魚子文の様子から,これまで取り上げてきた大型の銀貼鏡と同類とみなして差し支えないだろう。しかし,発掘報告書の図版からの判断であるので,正確なことは言えないが,翼を広げた鳥を真上から見た形態の鳥の表現などは高松塚古墳出土鏡と同じであるので,大型の「銀貼海獣唐草文八稜鏡」より,幾分時代が下ると思われる。従って,大型の銀貼鏡の制作年は706年よりは確実に遡り,銘文に見る692,3年頃との間の時期に想定される。同じ様な銀貼六稜小鏡で紀年墓から出土した鏡が3点知られている。それらは図版(1993年に出版された『挟西新出土文物集幸」の写真および『考古学報』1994.3の描き起こし図)でみる限り706年紀年墓出土鏡より少し雑なようにも感じるが,文様構成は似通ったもので,制作年にあまり大きな隔たりはないと思われる。ところが,墓は開元6年(718),開元20年(732),開元26年(738)である。すなわち,これはこの様な銀貼鏡は実用品であり,ある程度使用されてから持ち主とどもに埋葬された事実を物語る。これと全く同じことが銀器にも見られる。西安市東郊西北国棉五廠出土の2個の鍍金蛤形銀合子がそれぞれ開元6年(718)と開元20年-288-
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