鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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② 長谷川雪旦研究研究者:山口大学教育学部助教授影山純夫江戸時代後期の絵師長谷川雪旦は,「江戸名所図会」の挿絵を描いた人物として知られている。「江戸名所図会」の挿絵は労作であり,確かに雪旦と「江戸名所図会」とは,どうしても切り離して考えられない関係にある。しかし,絵師としての雪旦の活動は,挿絵制作にとどまらない幅のあるものであった。「雪旦雪堤粉本」(国立国会図書館蔵)を見るとよい。それは,雪旦が多くの独立した絵を描いたことを明らかにしてくれる。他に四季耕作図(佐賀県立博物館蔵)をあげてもよい。これは六曲一双の屏風に描かれたものであるが,雪旦が技量のある絵師であったことをも示している。これ以外にも例としていくつもの作品をあげることができるが,詳しいことは別稿に譲りたい(「長谷川雪旦考」デアルテ第10号)。このように雪旦は,幅のある制作をおこなったのではあるが,その本領はやはり挿絵やその独立作品化ともいえる風俗画や風景画にあらわれているといえる。雪旦の作品として残る最も早いものは,15歳の時に描いた「雪旦雪堤粉本」(国立国会図書館蔵)中の雪嶺筆七人狸々図模本や家康御座備図模本であるが,専門絵師としての初期の作品としては,「狂歌三陀羅かすみ」中の挿絵をあげることができる。この書は,「国書総目録」(岩波書店刊)には個人蔵の1本が記録されるのみで,筆者も調査をおこない得ていない。「国書総目録」によれば,千秋庵三陀羅法師の編集になる狂歌集で,北尾重政(1739■1820)と雪旦が挿絵を担当,1898(寛政10)年に刊行された。重政は改めて記すまでもなく,江戸時代中期後半の浮世絵界の巨匠で,美人画を得意とした。この年重政は60歳。すでに浮世絵界で押しも押されもしない地位を獲得していた。この重政がなぜ21歳の業績もほとんどない雪旦と挿絵を担当したのであろうか。この答えは,この本の調査によって見い出すしかないが,調査をおこない得ていない今は,雪旦が重政の不得意とする分野でのみ絵を描く機会を与えられたと考えておきたい。その分野とは,肖像を含んだ人物画もしくは風景画であろうと想像してみたが,確信は持てない。それにしても,雪旦の起用は,希な抜擢であったのではないか。なお,雪旦は1824(文政7)年刊行の千首楼堅丸編の「狂歌千もとの華」に,2代重政と共に筆を振うことになる。雪旦の現在知られているはれの仕事の最初が,このような挿絵制作であったことは象徴的であり雪旦のその後を示しているようでもある。-20 -

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