鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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2.当初からこの形式を受容した1.一定期間を経て完成形式に至ったの二つの場合が考えられる。1の場合,こうした形は我が国独自のものということになる。2の場合はすなわち外来の典拠の存在が前提となる。現在よく知られている中国の来迎をモチーフとした作例では,敦燻431窟の観経変相中の九品来迎図やハラホト出土の西夏の阿弥陀三導来迎図などいずれも観音・勢至は立像で,しかも両者が協力して一つの蓮台を持つ姿であるところに,鳳凰堂扉画とは大きな違いがある。しかし敦煉171窟,215窟観経変相においては三尊とも坐像で,しかも215窟では不分明ながら両脇侍は脆坐,さらに,一方の脇侍が立て膝であるようにもみえる。両脇侍の手勢は跳坐のものは合掌形のようにみえ,いずれも蓮台は確認できない。しかしながら従来,宋・元画とされる来迎図において両脇侍は直立ながら持連台・合掌の形が散見されるので,これを信ずるならば,おそらく請来の来迎図に鳳凰堂のような“来迎する三尊の姿かたち”が表わされていた可能性は大であろう。ここで,鳳凰堂扉画に先行する来迎表現について記録から知られるところを若干述べておく。まず仁舟元年(851)の比叡山東塔常行堂九品浄土図(『山門堂舎記」)は当麻曼荼羅の下縁の九品来迎図とは異なるものと思われ,むしろ来迎そのものを主題とした作例では天慶八年(945)関白藤原忠平に送られた山階寺九品往生図(『貞信公記』)が初めてのようであるが,なおこれが往生のみを描いたのか,来迎場面から含んでいるのかは慎重を要するところである。『首榜厳院二十五三昧結衆過去帳』に源信が阿弥陀仏来迎の影像を図絵するとあるのか独立した来迎図の文献上の初見として知られ,おそらく十世紀末ないし十一世紀初頭には来迎図が描かれたのであろう。これに続く来迎図制作の初期の例としては,源信が平維茂に贈った「極楽迎接曼荼羅」(『後拾遺往生伝」巻中),念昭が図した「聖衆来迎相」(『榜厳院二十五三昧結衆過去帳』),そして寛仁四年(1020)藤原道長の無量寿院扉画九品蓮台図があり,以後枚挙に退ない。無量寿院扉画は『栄華物語』によると蓮台をもつ観音菩薩を含む来迎三尊が描かれていた。一方,彫像の方は『扶桑略記』に寛徳二年(1045)三条天皇の皇子敦明親王が六条邸内に阿弥陀迎接像を造立したとあるのが文献上の初見である。この像は乗雲・持蓮台のように記される。-295-

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