鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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2 平安時代坐像形式これらの例では勢至菩薩の姿にふれないが,合掌形は古来主尊に随侍供養する姿としては一般的であり,特記するにおよばなかったように思われる。敦煙431窟のような観音・勢至両菩薩が協力して蓮台をもつ姿は我が国では知られておらず,とくに彫像ではこの形を表現するのには無理がある。鳳凰堂の例に鑑みてこれらも通行の持連台・合掌の形式であったとみておくのが妥当であろう。ただ来迎形の三尊を含む表現ということになると,もう少し遡る。前記寛仁四年(1020)の無量痔院には丈六九体阿弥陀および四天王像を安置したが,中尊には観音・勢至菩薩が配されていた。道長はここで五色の糸を手に持ち臨終を迎えたが,中尊の両脇侍が持蓮台・合掌,さらには跳坐の姿であった可能性は相当高いであろう。九体堂は以後平安時代に三十棟以上を数えるが,周知のとおり現存するのは浄瑠璃寺の作例が唯ーである。浄瑠璃寺の中尊像は一説に永承二年(1047)制作ともいわれるが,やはり脆坐,来迎形の観音・勢至を配していたと考えるべきであろう。天延三年(975)泰善検校建立の多武峯浄土院には阿弥陀三尊,二十五菩薩,四天王彫像が安置された(『多武峯略記』)。ただちに来迎とは結びつかないが,源信の迎接曼荼羅図絵のこととあわせると,時期的にはこの頃来迎彫像が制作された可能性はあろう。大阪・四天王寺阿弥陀三尊像もちょうどこの頃の制作と考えられるが,両脇侍の特異な姿勢は観音・勢至とみることにはかなり無理がある。また個人蔵菩薩立像は鳳凰堂雲中供養菩薩像に作風近く,十一世紀前半に遡る作例である。この頃には来迎彫像が既に制作されていたことを考えると,本像の体勢は四天王寺脇侍像よりもはるかに来迎との関わりを想定させる。但し,現在のところ,来迎の聖衆中に立像が登場するのは十二世紀の有志八幡講十八箇院阿弥陀聖衆来迎図,岩手・ニ十五菩薩堂菩薩像あたりからであることを考えると,四天王寺像とともに浄土群像中の供養菩薩とすべきであろう。いずれにしてもこうした彫像制作が,聖衆米迎の彫刻化の背景にあったことは確かであろう。“来迎する三尊の姿かたち”に限定すれば,観経変相図中にまず画像として登場したが,独立した表現としては画像・彫像いずれかが先行したとみるより,ほぼ同時期に発生したと考えるのが妥当であろう。-296-

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