を宝冠阿弥陀•四親近菩薩とする説と,宝冠阿弥陀・観音・勢至・地蔵・龍樹とする(1192)に近い制作と考えられるが,他の三像は十一世紀末〜十二世紀初に遡るものMOA美術館や三千院の彫像のような形式が圧倒的に多い。十一世紀後半から十三世紀初頭に三尊立像来迎形式が成立するまでの多彩な様相をみていく。周知のとおり,彫像における平安後期の来迎三尊は,来迎印を結ぶ阿弥陀如来坐像に蓮台を持つ観音,合掌する勢至の両脇侍をいずれも脆坐形で配した三尊坐像構成の十一世紀後半には来迎彫像の制作も盛んであったが,九体阿弥陀同様,当時に遡る遺例はまれである。寛治八年(1094)頃制作の即成院の阿弥陀聖衆来迎像は勢至菩薩が後補のものにかわっているため正確には当初の形が解らないが,おそらく合掌・脆坐形の現在の勢至菩薩の形と同じであったとみてよいであろう。ここでこのタイプの三尊坐像に地蔵・龍樹を加えた五尊形式についてふれておこう。その淵源は天暦八年(954)横川常行堂に安置された阿弥陀五雌像にあるが,この五尊説とがある(注1)。このことについては永延元年(987)制作の広島・個人蔵と,十一世紀頃と考えられている京都・醍醐寺蔵のそれぞれ線刻阿弥陀五尊鏡像が参考となろう。中尊阿弥陀如来像が個人蔵の鏡像では結髯・着冠形であるのに対し,醍醐寺の鏡像では螺髪説法印・偏担右肩の通行の形に変化しており,徐々に浄土教化していく様子を示しているように思われる。地蔵・龍樹を含む阿弥陀五腺は北宋端挟二年(989)の『地蔵菩薩応験記』に造像例もあり,おそらく横川常行堂像は個人蔵阿弥陀鏡像にみるような地蔵・龍樹を含む五尊形式の早い例であったと考えるべきであろう。では常行堂形式に由来する五尊が来迎形式にとりいれられたのか,それはいつからなのかが問題となる。保安寺阿弥陀五尊彫像は光森氏の指摘のとおり阿弥陀・勢至と観音・地蔵・龍樹とは別のものとみられるが,伝来を信ずれば十二世紀末にはこれらを五尊一具として祀っていたのであるから,観音・勢至の跳坐,持蓮台・合掌の形から,少なくともこの頃には既に,この五尊形式が常行堂の形式を承けながら浄土教化し,来迎の五尊として制作されることがあったとみなしてよいであろう。阿弥陀・勢至の二像は本五尊像がもと安置されていた廃忠光寺の願主平忠光の没した建久三年とみなされる。これらを総合すると彫像において五尊形式の来迎像が制作されたのは十一世紀末からと考えられる。遺品のうえから地蔵と龍樹が来迎図に登場するのは十一世紀末〜十二世紀前半の作と推定される滋賀・浄厳院阿弥陀聖衆来迎図からであり,-297-
元のページ ../index.html#307