鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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平安時代では,来迎図自体の遺例が少ないので実情とは異なるかもしれないが,現存作例にみる限り鳳凰堂扉画のように脆坐像が頻出する方がむしろ少ない。脇侍を立て膝とする場合は跳坐とするが,そうでない場合は訣坐とするのがむしろ一般的といえる。彫像ではこの践坐形を組合せるのは,遺例にみる限りでは十二世紀末からと考えられる。坐像構成の来迎像の最後に京都・長講堂阿弥陀三尊像をあげておこう。これは両脇侍が半珈踏み下げの珍しい作例であり,文治四年(1188)再建供養に際して仏師院尊が据えた(『山丞記』)像にあたると考えられている(注2)。本像は補修部分多く当初から半珈形であったかについで慎重を要する。この半珈形については院尊が当時再興に従事していた興福寺講堂阿弥陀三尊中の脇侍像の形式を採用したという指摘がなされている(注3)。十二世紀も後半に入ると来迎表現にも変化を求める傾向が顕著になるが,長講堂像の作者(あるいは願主)は古典的な坐勢に新しさを見いだそうとしたのであろうか。画像では脇侍の半珈形は例をみない。さて平安時代も末,十二世紀後半になると中尊阿弥陀は坐像のまま,両脇侍を立像とする作例が登場する。彫像では山梨・願成寺の像など,数は少ないが行なわれるようになる。しかし観音・勢至ともに直立するかほぼ直立に近い姿にとどまっている。さらに平安も末になると,安元元年(1175)の神奈川・証菩提寺阿弥陀三尊像のように観音・勢至がともに立像で,しかもよくみるとほんのわずかに腰を屈めた作例もみられるようになる。ベルリン東洋美術館の木造菩薩立像,京都・雲龍院薬師三尊中の日光・月光菩薩立像(もと観音・勢至を後世改変),福井・安養寺阿弥陀二十五菩薩来迎図などもその鎌倉初期の例としてあげておく。鳳凰堂扉画や京都・地蔵院の彫像のように観音・勢至の一方あるいは両方が立て膝をしている姿勢は,主尊に侍して供養する姿として古来より一般的であり各種浄土図に頻出する。その姿自体に動的な意味はないが,視覚的には全体の印象に動きのある変化を与える。これがやはり平安も最末あるいは鎌倉初期になると興福院の阿弥陀聖衆来迎図や常照皇寺の彫像のように今にも腰を浮かせて往生者を迎えとろうとする動きのある実感のこもった表現となる。それらの姿をみていると,まもなく和歌山・光台院阿弥陀三尊像や京都・清涼寺迎接曼荼羅図のような三尊立像が登場してくること-299-

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