雪旦の代表作である「江戸名所図会」は,その前半の10冊が1834(天保5)年に刊行されている。しかしその下絵制作はかなり早くからおこなわれていたようである。「江戸名所図会」については,斎藤幸雄,幸孝,月本という斎藤家の3代が編集に関わった。このうち幸孝には,「郊遊漫録」(国立国会図書館蔵)という著書がある。江戸及びその近辺をめぐり歩き,その地の寺院旧跡を調べあげた記録であるが,森銑三氏が既に指摘されたように,「江戸名所図会」のもとになった調査記録ともいうべきものであったことは,その内容からみて間違いはない。その巻頭には「文化十二乙亥年五月二十一日晴天」とあり,1815(文化12)年の夏以降におこなわれた調査の記録であることも知ることができる。「江戸名所図会」は大著である。月本自身がその附言に「此書ハ祖父が寛政中の編にして父縣麻呂が剛補文化の末に至てなり文政の今に至りて上梓の功を終りぬ」と記していることからみて,祖父幸雄の何らかの原稿があったのではあろうが,幸孝がかなりの調査を加えることは必要であったはずである。その調査の始まりがいつであったかわからないが,その記録がこのような形で残されていたのは幸いである。かなりの準備期間は,挿絵を担当する雪旦にとっても必要であった。「江戸名所図会」には700点以上の挿絵が含まれており,版下絵制作にもかなりの時間が必要であったはずであるが,その多くが現地における写生を必要としただけに,より長い準備期間が必要であったことはいうまでもない。それ故,雪旦もこの年にはその準備にとりかかっていたことは想像される。これに関して注目すべきなのは,この「郊遊漫録」に雪斐という名が見い出されることである。第1冊代太橋の前に「朝六ツ時発足市谷御門外二て雪曳待合同道」とあって,調査行に雪愛という人物が同行したことを知ることができる。また後にも「画工雪曳」と記されており,これが雪旦を指すことはほぼ間違いはない。雪旦と幸孝との交わりは,これよりかなり前に始まっていたのであろう。なお「郊遊漫録」は,1816(文化13)年11月2日の記事で終わっている。この年には,「利運談」が刊行された。これは八隅景山によって著された4巻からなる教訓書で,かなりの数の挿絵を雪旦が描いている。「江戸名所図会」の挿絵制作と平行してこの仕事が進められたのであろう。「狂歌三陀羅かすみ」の挿絵制作から,「江戸名所図会」や「利運談」の挿絵制作へと続く雪旦の活動は,雪旦が挿絵制作において社会的に評価されていたことを示している。「利運談」に,雪旦は歴史上の人物のエピソード場面などを描いている。この挿絵な-21-
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