鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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6)'「灼然」という高僧の弟子「上仙」が,諸々の鬼神等を従えていたという。一方愛媛と高知の県境近くに,鋭く尖った山容をみせる石鎚山は標高1982m,西日本随一の高峰で,古くから霊峰として信仰を集めてきた。石鎚山が史料に登場するのは,早くも平安初期の『日本霊異記』で(注5)'浄行の「寂仙」という禅師が石鎚山に止住して精進練行を続けていた。寂仙は天平宝字2年(758)に示寂するが,その生まれ変わりが嵯峨天皇であるという。この伝承は『日本文徳天皇実録』にも引き継がれ(注空海も『三教指帰』の記載から,石鎚で修行していたことが事実とされ,平安末期には『梁塵秘抄』に,聖の住所として「いとのっち」との名前が挙げられている。その後中世に至ると,石鎚山が中央にて役小角有縁の地と受け止められるようになり,少なくとも室町時代には石鎚山役行者開創伝承が成立する。そして室町後期には,石鎚金剛蔵王権現を本尊とし,役行者を案内したとする石仙を開祖にいただく前神寺が,石鎚ー山の別当としての地位を確立していたことが知られる(注7)。近世に至ると,伊予西条藩の庇護を受けた前神寺が,小松藩に支えられた横峯寺とともに石鎚信仰の中核となって多数の信者を集め,近世中期以降石鎚登拝の講(石鎚講)が広く組織されたのである(注8)。ところで石鎚山は他の霊山と同様,かつては女人禁制の山であり,現在でもその名残りとして7月1日の「お山開き」には女性の登拝を禁じている。また山頂の弥山への登山路としては,小松町河口から成就社を経由する表参道が一般的であった。ただし現在では西条市の下谷からロープウェイを利用して成就社に至っているが,かつては河口から参道を登った黒河に女人還堂があり,女性はここから山頂を遥拝していたという。この堂は維那寮とも称し,そこに銅造の役行者1奇像が祀られていた。この行者像は,ロープウェイの設営後かつての参道が廃れたのに伴い,ロープウェイ山麓駅近くの萬蔵院石鎚山役行者堂内に移安され(注9)'現在に至っている(図版1■3)。本像は後補になる高下駄からの総高107.3cm,台座からの坐高(像高)が63.8cmで,本体と同様鋳銅製の,半円筒形の台座上に両足を踏み下げて坐す。像自体の構造の詳細は明らかにできなかったが,各部を木型によって鋳造し,両足部や両手などを鋳懸けや柄によって組み合わせたものと考えられる。頭巾を被り,法衣の上に袈裟を偏担右肩に着け,両肩に蓑(木葉衣)を懸ける。開口してロ・顎髭をたくわえ,左手は膝上にて経巻を,右手には錫杖を執る。本像は前鬼・後鬼を従えない独尊像だが,役行者としてはごく一般的な像容になる。安定した姿態を破綻なく表すものの,造形面で-306--

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