樽味村同国伊与郡保免邑関谷儀平与励小松領黒川邑天明三癸卯歳五月吉旦これによると本像は,天明3年(1783)大坂の鋳工大谷惣兵衛によって造立されたもので,また銘文には造立にあたっての願主と壇越の名が記される。ここに記される作者の大谷惣兵衛については後述することとして,本願主の「福正院快澄」は,17世紀後半以降の先達名を記した明和6年(1769)の「石鎚山先達惣名帳」にはその名が見当たらない。これに対して「石鉄山大先達与仙松山/和氣寺」は,安永9年(1780)に,前神寺の住持を願主として作り替えられた石鎚弥山の大鎖の銘文に,やはり大先達として和気寺の名前が記されている。またこれに続いて名前の記される千足(束)邑は,18世紀に前神寺と石鎚山別当職をめぐって争っていた横峯寺のある村であり,最後に名前を記す黒河()1|)邑は,女人還堂が所在する村であることから,本像は伊予小松藩及び横峯寺の肝煎りで造立されたことが知られる。さて本像の作者として名前を留めている大谷惣兵衛は,大坂南瓦屋町に工房を構えていたようである。南瓦屋町は現在の大阪市中央区瓦屋町付近で,すぐ西側の長堀茂左衛門町には住友泉屋銅吹所があった。元来南瓦屋町は,瓦職人(瓦師)の屋敷があることで有名であるが,銅吹所の近在ということで鋳物師の屋敷等もあったことが知られる。すなわち「難波丸綱目』(延享版)「諸職商人所付いろは分」の「鋳物師」の項に,「松や町筋」「新屋」とともに「南瓦や町」の町名が挙げられ,『同』安永版にも「南かはらや丁」の町名が記されている。また『同』(延享版)「諸職名エ之部」の「佛具躊物師」の項には,南瓦屋町ではないが,「道頓ほり新屋大谷相模橡」の名が,そして『同』安永版「佛具屋/同鑓物師」の項に「新屋大谷忠兵衛」「同同松之介」「同(はくろ)丁四丁大谷勘兵衛」の名がみえる。以上の点から当時銅吹所の周辺に,「大谷」姓を名乗る鋳物師が,名エとして名を馳せていたことが窺われ,行者像を野木典七彦左衛門-309-
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