1780(安永9)年になっているか,菅原為俊の序が1776年(安永5)年に書かれていどから判断すると,その描法は先行する挿絵絵師の描法から多くを学ぶことで完成しているようにみえる。江戸時代中期後半には,読本や戦記,名所図会など挿絵を含む多くの書が刊行された。そこでは多くの絵師が活躍した。歌川豊国,北尾重政,北尾政演(山東京伝),北尾政美,葛飾北斎などの浮世絵師のほか,西村中和,上田公長,小野広隆,竹原信繁,奥文嗚,佐久間草慨などの名をあげることができるが,彼等のうち雪旦に大きな影響を与えたと考えられるのは,竹原信繁と西村中和である。雪旦にとって関係の深い戦記や名所図会の編著者としてこの時期に活躍したのは,秋里籠嶋である。籠嶋の著書としては,「保元平治闘図会」,「前太平記図会」,「絵本朝鮮軍記」などの戦記のほか,「和泉名所図会」,「木曽路名所図会」,「都林泉名所図会」,「都名所図会」,「摂津名所図会」などの名所図会をあげることができる。その挿絵を主に担当したのが,信繁であり,中和であった。竹原信繁(?ー1800?)は,大阪の人。春潮斎と号す。大岡春卜の孫弟子にあたる。「摂津名所図会」,「都名所図会」,「都名所図会拾遺」,「大和名所図会」の挿絵を描いた。西村中和(?ー?)は,京都の人。名は豫章,字は子達,梅渓と号した。「保元平治闘図会」,「近江名所図会」,「都林泉名所図会」,「紀伊国名所図会」,「木曽路名所図会」の挿絵を描いた。二人の活躍時期は重なるが,中和が少し後輩のようにみえる。この2人の挿絵を比較してみれば,その描法が極めて似ていることに気がつく。その樹木のパターン化した描き方,やや神経質な跛の入れ方,視点を高くとる大観的な構図。彫工による制約・パターン化といったことを考慮しなければならないのではあろうが,この描法は,まず信繁が作り上げそれを中和が学びとったと考えられる。これらの描法は,ほぼそのまま雪旦に受け継がれている。この2人の挿絵と「江戸名所図会」の挿絵を比較してみれば,その類似は一目瞭然である。あるいは,雪旦は江戸における信繁(もしくは中和)になることをめざして学んでいたのかもしれない。とすれば,その目論見は見事に実現したといえよう。名所図会の喘矢は,何なのか明らかではない。しかし籠嶋の著した「都名所図会」が,名所図会としてかなり早いものであることは間違いなさそうである。籠嶋の跛はるところをみると,安永の早い頃から編集が始められていたのかもしれない。籠嶋の著した名所図会の中でも最も早くなったものである。「江戸名所図会」の附言に月本が記しているように,「江戸名所図会」が幸雄によって寛政年中に編集し始められていた-22 -
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