①愛媛•前神寺役行者椅像•前鬼後鬼像-310-作った「大谷惣兵衛」もそうした鋳物師の一人であったと考えられよう。今回の調査も含め,管見に及んだ銅造の役行者像は,今述べた愛媛・石鎚役行者堂像を除けば以下の9例で,いずれも近世の作と考えられる。②京都・聖護院哀殿④奈良・大峯山上鐘掛岩⑤奈良・大峯山上鐘掛岩⑥奈良・大峯中台八葉深仙灌頂堂役行者半珈像・前鬼後鬼像3謳(図版5)(注12)⑦奈良・龍泉寺母公堂⑧大阪・玉泉院行者山本堂役行者坐像⑨兵庫・金蔵寺奥ノ院役行者1奇像・行基菩薩・慈覚大師坐像3躯(図版7)(注15)そもそも役行者像は平安末期以降の作例が数多く現存するが,中世に遡る遺品はすべて木彫像であり,銅像は塑像の場合と同様(注16),近世に入ってから新たに現れたものと想定される。そしてその像容は,木彫像のそれを受け継いだものであったと考えられる。というのも,銅像の役行者像には半珈,坐,1奇像の3種類があるが,これらはいずれも木彫像に先例がある。また持物についても,一部欠失する像が多いものの,右手はほぼ錫杖に統一され,左手も経巻(石鎚像,①,⑦,⑧,⑨)を中心にしながら独鈷(③),または数珠(⑥)であり,これらもともに木彫像や絵画作品に先例があることが確認される。また顔貌表現や服制についても,それ以前の木彫像の範疇から逸脱するものではない。それでは何故に役行者像が銅造で作られたのであろうか。それは上述の10例を見ると,その多くが奈良県南部の大峯山周辺など,多雨多湿の地域に安置されるべく造立されたものであり,特に④と⑤は当初より屋外に安置されたもので,石像の場合と同様に,そうした気象条件に耐えうるべく造立されたのではあるまいか。次にこれら10作例から注目されるのは,その分布の地域であろう。その多くは修験道の中心地であった大峯山周辺など近畿圏内であり,おのずと役行者を銅像に造るに至った契機が,当時の修験の組織の中心にあったことが窺われる。そしてその造立に3.近世の銅造役行者像③奈良•福源寺本堂役行者1奇像寵役行者半珈像・前鬼後鬼像3躯(注11)役行者椅像役行者1奇像役行者椅像・前鬼後鬼像1謳享保元年(1716)(注14)1基(注10)3謳天明2年(1782)頃1艦寛政9年(1797)銘1艦文化11年(1814)銘3謳(図版6)(注13)
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