鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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あたって,当時の大坂が重要な役割を果していたことが,一部の像の銘文より知られる。すなわち③の奈良県川上村の福源寺像は,天明2年(1782)の銘札のみが残る同寺行者堂の1日像と考えられる遺品。同じく銅造の前鬼・後鬼像を従える本像は,高下駄を含む総高90.5cm,台座柩の正面に「下福嶋(紋)山講足蛇講」との陽刻による銘が表されている。これにより福源寺像は,江戸後期に大坂下福嶋(島)(注17)の講が寄進したものと推定される。次に⑤の大峯山上像は,④の像とともに行場の一つ鐘掛岩上に露坐する独尊の銅像。総高44.5cmで,本体背面に「文化十ー甲戌七月□口」との陰刻銘が,そして台座正面に「大阪/福岡組」(注18)との陽刻銘があり,やはり本像も江戸末期に大阪の講中が造立したものと知られる。ちなみに④の像(腔からの残存高64.5cm)には,寄進者の名前等はみえないが,台座裏に「子時寛政九歳丁巳閏七月吉日」の銘が残る。以上僅かな例ではあるが,大坂の町人が役行者の銅像の造立に関与していたことを検証してみた。当時の大坂は,いうまでもなく西日本の経済の中心地であり,様々な造像活動を経済面から支えていたことが想定される。また吉野・大峯に地理的に近いということもあって,大峯登拝や役行者に対する信仰が盛んで,『難波丸綱目』(安永版)には大坂市中に散在する役行者像を祀る11ヶ寺を巡る「役行者十一ヶ所」(注19)があったことも知られる。また信仰面や経済面のみならず,鋳造という技術面からも役行者像の造像活動を支えていた。その好例となるのが,本稿で紹介した石鎚役行者堂像であろう。というのも,ほぼ同時期に再興された弥山の鎖は,尾道鍛冶町の「佐渡屋七良兵衛」が製作に当たっていた。これに対して行者像の造立は,運搬費も顧みず大坂の鋳工に依頼しているのであって,それだけ当時の大坂の鋳物師が,行者像の造立に手慣れていたことを示していよう。本稿では膨大な数が残る役行者の遺品のうち,石槌役行者堂像を中心に,これまで管見に及んだ近世の銅像について報告した。石槌役行者堂像をはじめ,近世の銅像は,美術史の上では取り立てて評価すべき遺例は稀である。しかし全国各所の霊山に対する信仰史や,鋳造といった産業史の側面からは看過しがたいものがあった。また本調査研究の本来の目的である,役行者像の図像としての成立やその影響関係を解明するためにも,近世の銅像や木彫像も含めて,まずは現存する役行者像の像容の実体を把4.結び-312-

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