鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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⑳ 鎌倉期における阿弥陀如来像造立の一考察研究者:滋賀県立琵琶湖文化館学芸員土井通弘小論における阿弥陀如来像とは,具体的には現在滋賀・玉桂寺に蔵される建暦2年(1212)造立の三尺阿弥陀如来像をさしているが,私の関心は,法然教団関連の阿弥陀像造立についての意義を明らかにすることにある(注l)。玉桂寺像は周知のごとく,法然高弟の源智の造立願文をはじめ,4万とも5万とも言われる人々の結縁交名等が胎内から発見された像である(注2)。その源智願文から本像は建暦2年1月25日に示寂した先師法然の一周忌を弔わんがために造立されたことが知られる。本像については,現在までに彫刻史,仏教史といった研究者の関心に沿って研究がなされてきたが(注3)'翻って考察するに,そもそも法然は造寺・造像を“助業”として積極的に評価しないばかりか,造像そのものに否定的であったことは『選択本願念仏集」に見えており(注4),法然教団における本像造立の意味を再度問い直す必要があると思われる。玉桂寺像の発願主である勢観房源智は,法然の晩年に近侍した門弟の一人であり,示寂にあたっても「一枚起請文」を付与した門弟-1寸与された門弟は源智一人ではないがであった。従って,源智は法然の教義等について証空や湛空などの門弟とはやや異なり,比較的忠実に継承した一人として理解されてきたといえよう。また,唯一の著作とされる『選択要決』にしても,法然没後しばらくたって後,門弟の中に先師の教義を乱すことが目に余るようになり,本来の教えに立ち帰らんことを願った著作であり,さらに,知恩院蔵の法然上人絵伝(以下四十八巻伝と略記)にも「勢観房一期の形状はただ隠道をこのみ,自行を本とす,をのづから法淡などをはじめられても,所化五六人よりおおくなれば,魔縁きをいなん,ことごとしとて,とどめられなどしける」(注5)と記され,隠遁的な聖としての源智像が与えられている。以上のように源智に対する隠遁的聖としてのイメージからすれば,また,晩年の法然に常随し,法然教義を身をもって受法したであろう源智が玉桂寺像の発願主として登場することに奇異の念を抱くものである。法然が示寂したのが建暦2年1月25日,願文の日付がその年の12月24日であるから,実質11ヶ月の間に4■ 5万人の結縁交名を成し得るには並大抵のことではなく,造像・結縁に対するかなり積極的でかつ組織的な“意志”の存在を想定せざるを得ない。上記の四十八巻伝に現われる隠遁的な源(1) 問題の所在-316-

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