鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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巻42この8章の中に数多くの天台・真言宗僧や南都浄土教家との関わりが描かれている。この構成を見ると,法然の事蹟は一応巻第1から39で終わる。出家・求法等の章は宗教者法然の伝記を語る場合には不可欠の要素であるが,その中でも注目すべきは巻5を感じて許可潅頂をさつけ,宗の大事のこりなくこれをつたふ」とあり,後に実範は法然に帰依し円頓戒を受け弟子となると記され,絵には実範の住房であろうか,実範と法然が対坐し硯箱を前にした実範が巻紙を執り二字(実名)を書く場面が描かれている。言うまでもなく,実範は天養1年(1144)9月10日,法然11オの時に示寂しており,この様な場面は現実的にあり得ない。だが,本絵伝の作者がこの記事を所収しなければならなかったのは,実範が1144年「東大寺戒壇院受戒式」(実範式)を著わし,鎌倉期の戒律復興運動の端緒を開いたことに加えて,当該期南都浄土教の本拠地とも言うべき山城光明寺に住した人物であったことによると考えられる。実際にはあり得ないにもかかわらず,法然の求法を説くこの章で実範から法然への受法を明示することはどのような意図が存在するのであろうか。元久2年(1205)の興福寺奏状における専修念仏宗糾弾の一条に専修の徒の無戒破戒が論断されているが(注10),この奏状の起草者が実範の戒律復興運動の後継者と目される貞慶であったことは注目されなければ,南都を中心とする戒律復興運動に対する制肘策であったと考えられる。そして,本巻に先立つ巻第4が法然の南都遊学を中心テーマとしており,法相の碩学蔵俊,三論の寛雅,華厳の慶雅がそれぞれ法然の学識の深さに驚き,二字を書くというストーリーになっている。それを受けて巻5では前巻では説明されない戒律の問題,特に南都戒壇との軋礫を,実範と法然を対坐させることで解消しようと試みているのではないか(注11)。本記事は醍醐本,四巻伝,淋阿本,古徳伝,九巻伝に見えるが,建保2実範に受けたとの意を記し,他伝では法然が実範より鑑真の戒を受けるとの記事にな(3 -3)承元の法難4.法然の配流5.法然の往生6.反対者の帰依7.嘉禄の法難8.法然没後の門弟とその往生巻43■48の3段(以下巻5-3と略記)である。詞書に「中の川阿闇梨実範ふかく上人の法器年(1214)頃の成立とされる醍醐本別伝記だけが法然に入門した智鏡房が真言宗義を(巻29■32)-318-巻33■36巻37■39巻40■41

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