っている。従って,四十八巻伝は編纂過程で四巻伝以下の伝記を参照することでかかる構成的効果を獲得し,さらに実範が法然に帰依し弟子となったというように改変している。南都戒壇との軋礫は浄土宗の教団継続にとっては大きな問題であり,法然教団が鎌倉期を通じて被った法難の原因はすべてここに存在したと言っても過言ではない(注12)。鎌倉幕府に連なる人々との関係を語る章の巻26-4の絵を観察すると,最明寺禅門(北条時頼)の往生場面が描かれている。阿弥陀来迎図を懸けた前に合掌して曲菜に坐す時頼を中心にして,その左右に僧侶が3人と主人の急をきき馳参じた郎等たちが今まさに命終せんとする緊急の一瞬に立ち合っている。御廉を下した対では悲しみにくれる女房たちを配し,西方の彼方に現われた瑞雲を見上げる人々は時頼の往生極楽を実感するように劇的場面構成をとっている。詞書によれば,時頼は若い頃から智明について念仏安心の話を聞き,阿弥陀の来迎を望んでいた。弘長2年(1262)法蓮房信空の弟子敬西房が関東下向した折,念仏の安心を尋ね,弘長3年(1263)11月22日示寂した記事が収録されている。だが時頼自身は禅宗に帰依し,剃髪して道崇と号し多くの禅僧と親密な関係を有していたことは先学に説かれているところであり,時頼が念仏宗に接近した史料はなく本記事の出所は不明と言わざるを得ない。合掌する時頼に近侍する墨染衣の3人の僧のうち,向かって左の僧の面貌が西大寺の木造興正菩薩坐像にきわめて近似していることは注意されてよい。西大寺蔵の叡尊坐像は弘安3の特徴はやはり太くて垂れ下がった眉毛であろう。本像以外の叡尊の画像・彫像(注像力涛像であることは,没後の肖像が得てして誇張されるのに対して,本像は叡尊の風貌を忠実に写したものであったと推測できる。詞書には叡尊についての記述はないが,本伝記作者が,もし私の推測通り絵画表現として叡尊をイメージする僧を登場させていたとするならば,それはどのような意図に基づくものであったかが問われなければならない。『関東往還記』(注14)によれば,叡尊は北条時頼の度重なる鎌倉下向の招請に折れ,弘長2年(1262)2月鎌倉下向を果し,真言律宗の戒律布教に尽力している。叡尊が下向した頃の鎌倉は,度々の幕府禁制に見られるように念仏者の破戒行為が為政者の取締りの対象となっていた。時頼の強い叡尊下向の要請は,念仏宗徒による鎌倉の風年(1280)8月弟子たちが仏師善春に造らせたことが明確な像であるが,本像の面貌13)にもこの特徴は踏襲されており,叡尊像の指標とされるのである。加えて西大寺-319-
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