10冊が1833(天保4)年になっている。また残りの10冊は2年後の1835(天保6)年1833(天保4)年雪旦は,伊豆や箱根,鎌倉,大宮,秩父に出かけ,主に風景を描としても,すでに「都名所図会」は刊行されかなり広まっていたのであり,この書から幸雄が影響を受けていたとしてもなんら不思議ではない。この「都名所図会」が有名な書であったことは,「江戸名所図会」の序に松平定常が,「都名所図会始出。適在余成童時。一閲之即謂此可以供臥溜芙」と記す通りである。とするならば,信繁の絵にもまた後の挿絵絵師に影響を与えたのは当然であったといえる。雪旦は,「国書総目録」によれば1824(文政7)年刊行の千首楼堅丸編の狂歌集「狂歌千もとの華」の挿絵を二世北尾重政とともに描いたことになるが,これにはやや問題がある。雪旦にとっては,これより岡山鳥著の「江戸名所花暦」の挿絵を担当したことの方が大切である。この書の刊行は,1827(文政10)年である。江戸とその近辺の花鳥風月の名所を紹介するもので,雪旦はそれらを眺め楽しむ人々の様子を描いた。挿絵はわずかに18図で,大観的な風景画は少ないが,制作態度は「江戸名所図会」と同一といってよい。さて,この「江戸名所図会」は,月本の残した「月本日記」によれば,20冊の内のになり,ここに7巻20冊の「江戸名所図会」が完成するのである。既に記したように,雪旦は700点以上の挿絵を描いたのであるが,それらは視点を高くとった大観的な風景画と比較的対象を大きく捉えた風俗画的な風景画,それに故事による歴史画からなっている。大観的な風景画は,主に社寺や名所,橋などを対象にすることが多く,風俗的な風景画は,祭りや江戸の人々の生活に密着した場である通りや店を対象にすることが多い。ここに描かれた江戸の人々には表情があり,それが雪旦の特質とされることもあるが,それも雪旦が信繁や中和から学んだ可能性が高い。それはともかく,これだけの作品を1人で仕上げた雪旦の力量は素直に認めるべきであろう。また1点遠近法をうまく使った構図や画面の枠を使ってものを切り取る構図などに,雪旦の工夫をも見ることができる。いた。その時の写生帳が,天理図書館に残されている「相模伊豆武蔵秩父根辺常陸一覧地取」である。これらの地はおおよそ江戸を取り囲む地であり,社寺を写したものが多いことから考えると,「江戸名所図会」に続く図会の刊行が考えられており,その準備に雪旦が取りかかっていたと考えられなくもない。「江戸名所図会」の姉妹編と呼びうるものは,「東都歳時記」である。これもまた月-23-
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