鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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15日には西大寺に帰寺しているので,実際には北条時頼の死去には立ち合っていない16),島田氏の指摘とは意味が異なるものの,実範と叡尊という鎌倉期の戒律復興運動46-5では弁長の弟子然阿弥陀仏と源智の弟子蓮寂房が両師の伝えた法然の教義を読紀紫乱に対する引締め策の一つであった(注15)。従って鎌倉を中心に布教していた念仏衆,すなわち鎮西派の念仏衆は大きな打撃を被ったに違いない。叡尊はこの年8月し,四十八巻伝の詞書には叡尊の名は出てこない。また先行する諸伝記にも本記事は収録されていない。しかしながら,本絵伝の編纂者としては,叡尊らしき人物を画中に描き込むことで,叡尊の戒律復興運動すらも法然教の枠内に取り込むことをやってのけたといえるのではなかろうか。詞書とその絵とが必ずしも整合しないことは島田修二郎氏が指摘されているが(注に大きな役割を果した人物を画中に挿入することで,本絵伝編纂当時,法然教団が抱えていた“破戒”の問題,特に南都仏教界からの批判をかわそうとする意図が存在したといえるであろう。次に源智の登場する場面の考察に入る。源智が描かれるのは,巻39-5,巻45-1 の二場面のみである。前者は法然五七日の法要の場面で尊師隆寛の後で静かに坐す源智像である。後者は源智往生の場面である。鎮西派の祖聖光房弁長の事蹟に巻46の全段が使われていることと対照的である。他の主要な門弟でさえ往生場面1段しか与えられていないことからすれば問題がなさそうであるが,信空・隆寛・聖覚たちは本絵伝の中では度々登場しており,彼らが法然教団で果した事蹟は紹介されている。確かに,病気勝ちであった源智は上述の諸師に比して隠生的側面が強かったかも知れない。しかし,鎮西派が主唱した浄土宗累代に宗祖法然と三世弁長の間に第二世として位置付けているにもかかわらず,本絵伝内での源智の扱いは余りにも簡略すぎている。巻み比べた結果,両流に差がなく,蓮寂房の弟子たちは弁長の流儀を相伝することになったとしており,この段は本絵伝の成立を考える場合重要な意義を有していると言えよう。即ち,元筑紫の天台僧であった弁長が法然から受法した期間は極めて短く,その後は一度も上洛せず,法然の土佐配流の際にも筑紫から出て法然を来訪した形跡もないことから,弁長の事蹟を疑問視する見解もある(注17)。とするならば,弁長を祖とする鎮西派とすれば,血脈継承上の問題として,最後まで法然に近侍した門弟の流派と融合する必要があった。私の考えでは,源智の流派こそ最適であったと言わざるを得ない。つまり,法然の没後その教義を継承したのは信空あるいは隆寛であっただ-320-

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